抽象論  〜 心の秤 〜






誰にでも心に秘めた”想い”と言うのは
ひとつやふたつはあるものでしょう

それを表に出すかどうかは
その人にもよるし
多くの人は”理性”と言う箍(たが)で
それを抑え込んでいるのかも知れません



純粋に

”自分の気持ちに正直に生きたい”

人はいつもそうありたいと思っています

しかし、そうした結果

時には
他人の心を
傷つけてしまう事もあるかも知れません

そんな時
人はどうするのでしょう?

それでも良かったと思えるでしょうか?
仕方が無かったと自分を正当化するのでしょうか?

それとも
自分を悔み後悔をするのでしょうか?



”他人の不幸の上に
 自分は果たして幸せになれるのか?”

人生の秤は時に残酷な結論を求める事があります

他人の事など考えない自己中心的な人間ならきっと
こんな事は考えないだろうし
他人がどう思おうと
自分の意のままに生きようとするでしょう

でも
優し過ぎる人間は
自分の幸せだけを考える事が出来ずに
時として
自分より他人の幸せを選択してしまう場合があります

それって切ないのですよね


例えば
希望があるから人は生きようとする
でも
希望があるが故に人は苦しんだりもする

苦しむのは多分
自分の為だけに生きられないから?

考えてみると
希望も本当は残酷なモノなのかも知れません



”自分の気持ちに正直に生きる事”

それは
純粋ともワガママともとれますが
同じ行為も見る側によって
180度、真逆の評価になったりします

他人の事なら第三者は何とでも言うでしょう


じゃ、自分の事なら?

それを決めるのが
きっと心の秤なんでしょう






























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