”優しさ”が曖昧な言葉だと言う理由





”優しさ”

これほど曖昧な言葉は無い



何より
”優しさ”と言うのは
自分が自分自身に対して
そう評価をするものでは無くて
相手が自分に対してする評価なのだから


つまりは
受け止める側の”思い”ひとつなのだ


例えば
誰かに対して10個の行動を取ったとしよう


それが同じ行動だったとしても

ある人は10個の内
1個でも優しいと感じなければ
「あいつは冷たい奴だ」と、思うかも知れない


逆に
9個の行動は冷たいと思っていても
残りの1個が
その人に取っては代え難い”優しさ”に感じたなら
「あの人は優しい人だ」と、なるだろう



”優しさ”とは
他人の評価では有るが
第三者の評価では無い

あくまでも自分と関わる人の評価なのだ


そこが
時に話をややこしくしたり
”優しさ”の意味を曖昧なものにする


だから
同じ人を評価しても
ある人は
「優しい人」と、言うだろうし


違う人にとっては
「冷たい奴だ」と、なるかも知れない

若しくは”優しさ”が
「ただの優柔不断」と、映る場合も有るのだ


もっと言えば
好きとも嫌いとも評価の出来ない相手を
「優しい人」
「良い人」
と、言う言い方でお茶を濁す事がある

言う側からすると
これは
とても都合の良い言葉である

ただし
言われた方からすると
時として
これほど残酷な言葉はない



話を元に戻そう


「優しい」「冷たい」「優柔不断」

では
その境目は何処に有るのだろう?


それはやはり
その人に対する好意の度合いだろう

ちょうど、セクハラと同じだ


同じ事をされても

好きな人からされたら「スキンシップ」だが
嫌な相手からされると
それが「セクハラ」となるのと同様に
”優しさ”も又
相手に対する好意の度合いで
「優しい」と「冷たい」
あるいは「優柔不断」に分かれるのだ



ではこれは
努力をすれば何とかなるのであろうか?

残念ながら必ずしもそうでは無い場合も多い


もちろん
日頃の付き合い方や
接する態度は大きくものを言うので
相手に対する努力は不可欠ではあろうが

後はタイミング
これも大きな要素になる

間が悪いと弁解のしようも無い


しかし
一番大きな要因は
やはり相性と言う事になるのでは無いだろうか?

相手を受け入れられるかどうなのか?

それには生理的な部分も多分にはあるだろうが・・・



需要と供給では無いが
相手が望む事を
さりげなく出来る自分でありたいと思う


「優柔不断」だけならまだマシでは有るが
「優しさ」も過ぎれば
「余計なおせっかい」になってしまうのだから

























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