珈琲茶房<扉>








行きつけの喫茶店
『珈琲茶房<扉>』の扉を開けて店に入り、
いつものカウンターに座ると
僕はいつものようにブレンドコーヒーを注文した。

立ち上る独特の香りの中で、
サイフォンから落ちていく琥珀色にも似た茶色の液体を
飽きもせずに眺めながら待つ時間も、
僕には
仕事の疲れを癒す為の至福の時間と言って良かった。



「はいよ、大盛り」

そんなお決まりの台詞と共に
マスターはとっておきの笑顔を添えて、
そしていつものように、
そっと僕の前にコーヒーカップを置いた。


「あらっ、それじゃマスター。
 私にも大盛りひとつね」

笑いながらそう言うと、
君は席をひとつ空けてカウンターに座った。

「こんばんは」

「あっ、あぁ・・・こんばんは」

君は愛想よく僕に向かって会釈をすると、
ハンドバッグから
書店の紙のカバーを掛けたままの文庫本を取り出し、
栞をカウンターの上に置いてからその”続き”を読み始めた。


”愛ちゃん”

この店の
別の常連グループからそう呼ばれている君の事は
僕も依然から良く見かけていて知っていたけど、
挨拶を交わしたのは今夜が初めてだった。


”愛ちゃん”と言う事以外は、
本名も何をやっているのかも僕は知らなかった。

歳は多分、二十代後半くらいだろうか。
少なくとも、僕よりは五歳以上は若いのだろう。

そんな君は、ただ時折この店で見かける常連の一人。
君にとっても多分、そうだったよね。



或る日、会社帰りに本屋に立ち寄った僕は、
いつものように
文庫本の本棚の前に立って気になるタイトルを探していた。

好きな作家はもちろんいたが、
特にその人にばかり拘っている訳でも無かった。

選ぶポイントはひとつ。
それはタイトルだ。

気になったタイトルを見つけると手に取って、
裏表紙に書かれている粗筋に目を通す。
そして、読む気になった内容ならそれをレジに持っていく。
もし気に入らなかったら、
その本は本棚の同じ場所で次の買い手を待つ事になるのだ。


「あら、こんばんは」

そう声をかけられて振り返ると
そこには見知らぬ女性が立っていた。

紺色の制服のベストにシンプルな白いブラウス。
ベストと同じ色の膝が少し覗いたスカート。
水色のシュシュで
一つ縛りに結んだ茶色の長い髪と赤い縁の眼鏡。

「あっ、こ、こんばんは。あの・・・何処かで・・・?」

「あれ? 解りませんかぁ〜? 私です。ワ・タ・シ」

そう言ってその女性は眼鏡を外してみせた。

「えっ? あっ!」

「うふふ。解りました?」

「愛ちゃん?」

「ピンポーン、大正解です」

君は笑顔で答えた。

「ど、どうしてこんな所に?」

突然の事に慌てた僕は少ししどろもどろになりながら、
そんな頓珍漢な事を言うのが精一杯だった。

「こんな所って・・・私だって本くらい読むんですよ」


それは良く知っていた。
喫茶店のカウンターに
独りで座っている時の君は必ず文庫本を開いていたよね。


「タカさんこそ、”こんな所”で何をしてたんですか?」

君は悪戯っぽく笑いながら僕と同じ言い回しでそう言った。

<えっ?>

心の中で僕は驚いた。

<僕の名前を知ってくれている?>

苗字が『高山』の僕は
マスターを始め友人達からは『タカさん』と呼ばれていた。
少なくとも君は僕の愛称を知ってくれていた。
そんなちょっとした事が嬉しくて気恥ずかしくていた。


「えー? 本を読むイメージって無かったかな?
 僕だって本くらい読むんですよ。
 いつもアホな話ばかりをしている訳じゃないんだから」

「そう言えばいつも
 マスター達としょうもない話ばかりしてますよね?」

そう言って君はクスクス笑った。

「まぁ・・・確かに否定は出来ないけど」

「あっ、ごめんなさい。そう言う意味じゃないの。
 なんか、いつも楽しそうに笑ってるなぁ〜って思ってたから」


急に照れくさくなった僕は話題を変えようと頭を巡らせた。
でも君が言った『いつも』と言う言葉に僕は敏感に反応したんだ。

<いつも見てくれていた? 本当に?>

そして一瞬、僕の思考は停止をした。


「いつもどんなのを読んでいるんですか?」

君が訊いてきた言葉にハッと我に返った僕は思わず訊き返した。

「えっ?」

「んもう、聴いてなかったんですかぁ〜?」

口を尖らせながら君がクレームをつけた。

「いや、聴いていたよ」

「本当にぃ〜?」

疑うように君は僕の目を見た。

「本当だよ。本・・・本だけに?」

「何それ? アハハ」

こんな化石のようなギャグとも言えない言葉に余程ウケたのか?
君は人目を気にしながら口を押えて、
そして込み上げる笑いを押し込めるようにして笑っていた。

僕はただ戸惑って頭を掻くしかなかった。


<可愛いな>

そんな想いが心の中で少しづつ大きくなっていくのが解った。


「特に誰と言う事も無いんだけどね。ジャンルも特には決めてないし」


<何か話さなきゃ!>

自分の心の中を見透かされないようにと
僕は何も無かったような顔を作って、
加えて、
心のドキドキを抑えるように努め、
且つ冷静さを装って話を続けた。

「文学青年なんて気取っていた訳じゃないんだけどね。
 昔は古典とか純文学も結構読んだけど、
 最近は柔らかない系が多いかな。
 夜のお友達になるような感じのね」

「夜のお友達? いやだぁ〜 そっち系ですか?」

「えっ?」

僕は何かとんでもない言い方をしてしまったみたいだ。
僕は焦って何とか打ち消そうとした。

「い、いや、そう言うのじゃなくってさ」

「うふふ。良いですよぉ〜 別に隠さなくたって」

「いや、だからさ。違うんだって!」

「まぁ、まぁ」

焦っているボクをなだめるように君は言った。
しかし、笑いをかみ殺しているのが解る。

<最悪だ!>

僕は泣きたくなった。
こんな誤解をされたままだと
今度店で会った時にどんな顔をしたら良いのか?


「いや、だからね。そう言うのじゃなくってさ。
 眠れない夜に静かに読める本と言うか・・・
 そうそう、難しい事を考えずに読める本って言うかさ」

「ふふ。解ってますよ。
 でも、別に”そっち系”の本を読んでいたって
 恥ずかしがる事なんか無いですよ。
 正常な若い男性ならそれが自然ですもんね?」

「いや、だからさ」


<どうしよう!だんだんドツボに嵌っている気がするぞ!?>


「うふふ。冗談ですよ、冗談。
 タカさんって、ホント真面目なんですね。
 あっ、これ!」

本棚に目をやった君は、
一番上の棚の文庫本を取ろうと背伸びをして更に手を伸ばした。
でも、少しだけ届いていない。

「これ?」

「あっ、はい」

僕はその文庫本を手に取ると君に手渡した。

「『さびしい王様』? 『裸の王様』なら知っているけど」

「えー? やっぱり”裸”に行くんですね?」

君は笑いながら言った。

<しまった!>

「いや、だから・・・ん、もう何でも良いや」

僕は苦笑するしかなかった。
君はその文庫本の表紙をしげしげと眺めていた。

「やっと、見つけたわ」

そう呟くと僕の方を見て頭を下げた。

「タカさんに会ったお蔭です。ありがとうございます」

「いやいや、そんな」

僕は頭を掻いた。そして訊いた。

「それって、どんな本なの?」

「北杜夫の古い小説なんですけど、
 小説と言うよりは童話に近いのかな。
 奸智に長けた総理大臣に
 役に立たない帝王学とサイン学だけを教え込まれた幼い王様が
 革命に乗じて冒険に出て成長していくと言う話なんですけどね。
 出てくるキャラクターも話の展開もユーモラスで楽しいんですけど、
 大人が読むとただ楽しいだけじゃなくて、何て言うのか・・・
 そう、タイトルの「さびしい」って言葉が解ってくると言うか。
 この本の事は知人に聞いていたんですけど
 その人いわく
 『プリンに醤油をかけて食べたらウニになったみたいな』ですって」

「ん〜 解るような解らんような」

「ですよね〜? それで気になって探していたんです」

「ふぅ〜ん」

「でも・・・」

「うん?」

「確かに『さびしい』って抽象的な言葉ですよね。
 簡単明瞭に『こうだ!』って言えないと思いません?
 『物悲しい』とか『切ない』・・・は違うかな?
 えーっと他は・・・そう、『心細い』とか
 何となく、こんな感じとは言えるんだけど
 上手く説明できないですよね?」

「そうだねぇ〜 『さびしい』か。
 当たり前に使っていたから、
 そんな事なんて考えた事も無かったなぁ〜」

「そうなんですよね」


君の顔が少し曇ったように見えたのは気のせいだったろうか?

「何か、そんな事を改めて考えるような事でも?」

「ん〜 そう言う訳ではないんですけど・・・」

さっきまでの明快さと違って
何処か奥歯にモノが挟まったような言い方をする君。


<彼とケンカでもしたの?>

一番訊きたくて、一番訊きたくない質問だった。


「タカさんは? 何か読みたい本は見つかりました?」

「ん〜 今日は縁が無いみたいだよ」

<そう言えば、本を探しに来ていたんだっけ>

何かね、君と出会って、それどころじゃなくなっていた。

「あっ、それ解ります! あるんですよねぇ〜 そう言うの。
 素敵な本との出会いって、やっぱり縁ですよね」

「そうだね。
 人との出会いと同じくらい
 本との出会いって大きなものを感じる時があるよ」

「本との出会いで人生が変わる事だってあるって言いますもんね。
 ホント、人との出会いと同じかも・・・本だけにホントに?」

そんな君の言葉に、
ここが本屋だって事も忘れて僕達は顔を見合わせて笑った。



「タカさん、ありがとうございます。
 思いがけず今日は楽しかったわ」

本屋を出た所で君は僕に振り返ると、
そう言って深々とおじぎをした。

「いや、こちらこそ楽しかったよ」

<これから店で会っても君と話せる話題とキッカケも出来たしね>

そう心の中で僕は言葉を続けた。


「それじゃ、私はここで。早速帰ってこれを読まなきゃ」

「これから? 徹夜なんかしたらお肌が曲がっちゃうよ」

「あー、大丈夫! もう十分曲がってますから。
 もう再来年で三十歳なんですよ。全くもう! ですよね」

「何を言ってるんだか。僕なんて来年四捨五入したら四十だよ。
 全くもうと言うより、何だかなぁ〜って感じ」

「でも、男の人の四十歳ってまだまだこれからじゃないですか」

「まだ四十には五年あるけどね」

「あっ、そうでしたね。ごめんなさい。
 でも、女の三十歳って・・・」

「うん?」

「あっ、いや・・なんでも無いです。それじゃ又、お店で」

「そうだね。あっ、そうそう!
 この先に車を停めてあるんだ。送ろうか?」

僕は意を決して言った。

「いえ、大丈夫です。そんなに遠く無いんで」

<敢え無く撃沈?>

気を取り直して、且つ、努めて笑顔で僕は言った。

「それじゃ、気を付けて」

「はい、ありがとうございます。それじゃ、おやすみなさい」

僕は手を振って君を見送った。



家に帰った僕は布団に入ってからもなかなか寝つけずにいた。
今夜の本屋での君との偶然の出会い、君との弾んだ会話。
そして、君の屈託の無い笑顔を思い浮かべていた。

盆と正月と誕生日がいっぺんに来たようなそんな浮かれた気分。
『有頂天』と言う言葉はこんな時の為にあるに違いない。

僕は君の事が本気で気になり始めていた。



本当はすぐ次の日にでも店に行きたかったのだけど、
そんな時に限って仕事が忙しくて
店が営業をしている時間に仕事を終われなかった。

そんな日が三日続いた。

<君は店に来ているだろうか?>

気もそぞろになりながらも仕事は休めない。

<全く、何てこった!>

そして、四日目には二泊三日の出張が入った。


”逢えない時間が愛、育てるのさ”

昔、そんな流行歌があったけど、
そう言う事って本当にあるんだろう。
ここにその見本がいるんだもの。



一週間後、
僕は仕事を終えると早々に駐車場に向かい、
車に飛び乗って、
そして一目散に”目的地”に走ると
駆け込むように店の扉を開けた。

息を切らせて店の中に入ると、
すぐさま僕は店の中を見渡した。

<なんだ、来てないのか>

僕は少しガッカリしたが、そのうち来るかも知れない。
そう思い直していつものカウンターに座った。

「マスター、いつものブレンドで」

「はいよ。おや、息を切らせちゃってどうしたの?
 そういやしばらくだね。 忙しかったのかい?」

「えぇ、安い給料でこき使われるのは
 何処の世界のサラリーマンも同じなんだよね」

「だねぇ〜 俺は早めに見切りをつけて良かったよ。
 全然、儲からないけどね」

コーヒーを落としながらマスターはそう言って笑った。



マスターは三十歳の時に
脱サラをしてこの店を始めたと言っていた。
元は喫茶店にコーヒーを卸す仕事をしていたのだが、
コーヒー好きが高じて
親の土地を借り受けて自分で店を開いたのだとか。

確かにこの店のコーヒーはどれも絶品だ。
当然、豆には拘っていて焙煎も自家製だし、
コーヒーだけでもメニューは数十種類はある。

でも、
僕はこの店のブレンドが一番のお気に入りだった。
コーヒー独特のほろ苦さと渋味が
絶妙に調和されていて何杯でも飲めるコーヒー。
マスターの人柄と職人魂が籠っている。
大袈裟じゃなくて
僕が今まで出会ったコーヒーの中では最高だと思っていた。


『珈琲茶房<扉>』

住宅街の中でも山小屋風の目立つ建物だ。
内装も期待を裏切らず木板をふんだんに使っていて、
何時間居座っていても落ち着くと言うか、
(まぁでも、店にとっては迷惑な話かもしれないが)
変な話、僕にとっても
自分の無機質なマンションよりは遥かに居心地が良かった。

コーヒーが売り物の店にしては少し変わった名前だと思っていた。
一度、この店の名前の由来を訊いた事があった。

「ねぇ、マスター。どうしてこの店の名前を<扉>にしたの?」

「変かい?」

「いや・・・そう言う訳じゃないけど」

「あはは、相変わらず正直だね」

マスターは面白そうに笑った。

「何処かに入る時も出る時も必ず扉を通るだろう?
 ここに入って来るお客さんも、
 ここから出て行くお客さんも同じ扉を開けるんだ。
 つまり・・・何て言うか、扉って人生そのものなんだよ。
 扉は幾つもの人生をただ見続けているだけかも知れない。
 特別、何かを言うほど驕っちゃいない。
 ただ、見守っていて、そして祈るんだ。
 この扉を開けた人に幸あれとね」

「うん」

「だから、本当は
 『人生の扉』って名前にしようかとも思ったんだけど、
 何かシャンソン喫茶みたいだろ?
 シャンソンは嫌いじゃないけど、
 それじゃ他の曲はかけられなくなるからね。
 それに、俺は本当はロックが好きなんだ。
 ギンギンなハードロックもね」

そう言ってマスターは
サイフォンを左手で握るとクルッと片手で回したかと思うと、
右手を上下させてギターを弾くマネをして見せた。

「どう、案外似合うだろ?
 でも、この店にハードロックは似合わないんだよな」

嘘か本当なんだかマスターは残念そうに言った。

「マスター、それ大事な商売道具」

「あっ、そうだった」

その時、BGMが代わり
ピアノの音で”My Foolish Heart”が流れてきた。

「これ、ビル・エヴァンス?」

「うん? あー、そうだね」

「やっぱりこの店はギンギンなエレキギターじゃなくて、
 こんなピアノが似合うと思うよ」

「あぁ、どうせ俺は<Foolish>だよ。
 でも、実は俺もそう思う」



<今日は来ないのかな?>

コーヒーを待つ間、コーヒーを口にしながらも
店の扉が開く度に僕は入口の方を見ていた。
当然、僕の”不審”な行動に気が付いたのだろう。

「誰かと待ち合わせ?」

マスターがニヤニヤしながら訊いてきた。

「えっ? あー、いや・・そんなんじゃないよ」

僕は慌てて打ち消した。

「そう? 良いんだよ、別に隠さなくたって」

マスターはサイフォンを磨きながらそう言って
又、ニヤニヤしていた。

「本当に違うんだって」


「こんちわ〜」

そこに独りの女性が店の扉を開けて入って来た。
君と同じ常連グループの・・・
そう、確か、里美と言ったと思う。

里美はカウンターの真ん中の席に座ると
右の席にハンドバッグを置いた。
それからメニューを手に取るとしばらく眺めた後で言った。

「やっぱり、いつものブレンドにしようかな。
 今日は奮発をしてブルマンにしようと思ったんだけど」

「何か良い事でもあったの?」

にこやかな笑顔でマスターが訊く。

「逆」

里美は溜め息を吐きながらそう言った。

「逆?」

「そう。最近、何も良い事が無いのよねぇ〜
 だから、少し気分を変えようと思ったんだけど・・・
 でも、ダメね。
 ブレンドより200円高いブルマンにするなら、
 帰りにコンビニでケーキが買えるとか思っちゃって。
 あー、私って根っからの貧乏性なんだわ。つまらない女」

聴くともなしに聴いていた僕は思わず苦笑してしまった。

「あらっ、ごめんなさい。
 変な愚痴を聴かせちゃいましたね。
 どうぞ、笑って良いわ。
 仕方ないの。こんな私だから」

「いや、そんな事は・・・」

咄嗟に何て応えたら良いのか僕は解らずにいた。

「いや、里美ちゃんは堅実なだけさ。
 それはむしろ良い事なんだ」

さすがマスターだ。良い事を言う。
僕も頷いて同意をした。

「そうだね。その通りだと思うよ。
 僕なんか自慢じゃないけど、
 この店で
 ブルマンなんて頼もうと思った事は一度も無いんだから」

「だから、店の売り上げが良くならないんだよな」

マスターが苦笑いしながら呟いた。

「いや、ここのブレンドがあまりに美味し過ぎるんだよ」

「あっ、それ解る!」

里美も同意をした。

「そりゃ、どうも」

「めでたし、めでたし?」

里美の締めの言葉にマスターも僕も大笑いをした。


「そう言えば、愛・・・元気にやってるかなぁ〜」

突然、里美の口から君の名前が飛び出して
僕は急に鼓動が高まった。

<元気にやってるかなって・・・どう言う事だ?>


「メールを送っても返事が無いの。
 行ったばかりだし、きっと、何かと大変なのよね」

そういう里美にマスターが応えた。

「そうだね。全く環境が違う街だろうからね。
 農家だってやった事も無かっただろうし」


<違う街? 農家?>

僕は思い切ってマスターに訊いた。

「愛・・・ちゃんて」

「あぁ、先日タカさんが来てた時もここに座ってただろ?
 あの子ね。ずっと付き合っていた人がいたんだ。
 その彼がね、
 転勤族でこっちに来た時に知り合ったらしいんだけど
 会社を辞めて家業のみかん農家を継ぐ事になったのさ。
 愛ちゃんも随分悩んでいたと思うよ。
 なんせ、彼の実家は愛媛だからね。北海道からは遠いし」

里美が続けた。

「愛は一人娘だしね。
 お母さんも身体が丈夫じゃなくて入退院を繰り返してるの。
 だから、お父さんの弁当作りだとか
 家事もけっこう愛がやっていたのよ。
 それを放って行くのは出来ないと言う想いと
 彼と幸せになりたいと想う気持ち。
 愛じゃなくても悩むよね」

<そうだったんだ・・・>

「まぁでも、愛ちゃんならやれるよ。
 あの子は芯の強い子だから」

「だと良いんだけど・・・ 愛、元気ぃ〜〜〜?
 元気なら元気と言ってよぉ〜〜〜!」

そう言うと、
里美は失恋直後の酔っ払いのようにテーブルに突っ伏した。



僕はついさっきまで
勘違いの挙句、有頂天で恋と言う扉の前に立っていた。
だが、
いざノブを回して意気揚々とその扉を開けようとした瞬間に、
その扉に張られていた張り紙に気付かされた。

『転居しました』

そんな気分だった。
現実として、本当に君は転居してしまった訳なのだけれど。



「あっ、そうだ! これ、これ」

マスターはそう言うと、
カウンターの下から一冊の文庫本を取り出した。

「何それ?」

訊く僕にマスターは言った。

「これ、愛ちゃんがタカさんに渡してって」

「俺に?」

「タカさんと愛ちゃんって仲が良かったっけ?」

「まぁ、顔見知り・・・そんな程度だけどね」

「だよね。じゃ、何でだろう?
 タカさん、実は愛ちゃんに惚れられていた?」

「まさか!」

「だよね?」

「マスター! 『だよね』は失礼だと思う」

「あっ、ごめん、ごめん」


その文庫本は本屋の紙のではなくて、
薄い緑色の生地に
小さな赤いチューリップが三本あしらわれた
布製のブックカバーに包まれていた。

僕は文庫本を開いた。

「あっ!」

それは紛れも無くあの時の本。
『さびしい王様』だった。


「何? 思い当たる節でもあった?」

マスターが興味津々と言うように訊いて来た。

「うん。先週だっけな。
 会社の帰りに駅前の本屋で偶然愛ちゃんと会ってね。
 これはその時に買った本だと思う」

「へぇ〜 タカさんも隅に置けないね。
 そんな事があったんだ。しかも、俺に断わりも無く」

「マスターに断わりっている?」

「もちろん! お客と言えば家族も同然。
 家族の付き合いは全部お父さんに報告がいるでしょ?
 法律で決まっているよ」

マスターはさも当然とでも言うように澄まして言った。

「何処の国の法律さ?
 それなら報告するから誰か素敵な人を紹介してよ」

「何? 何か言った?」

里美はそう言いながら顔を上げた。
化粧はそう濃い方では無いと思うけど、
その頬には涙の跡がしっかりついていた。

「あれ? 私、関係無い?」

「いや」

と、マスター。

「あるような、無いような?」

と、僕。

「何それ? 私だけ仲間外れ?」

「これ」

僕は愛ちゃんが置いて行った文庫本を里美に見せた。

「『さびしい王様』?
 『裸の王様』なら知ってるけど」

「あはは、僕も愛ちゃんに同じ事を言ったよ」

「愛? なんで愛が出てくるの?」

「これ、最後に来た時に
 愛ちゃんがタカさんに渡してくれって置いて行ったんだ」

「愛が?」

里美はキョトンとして僕をじーっと見て、
それからマスターに向かって猛烈に抗議をした。

「ねぇ! 何でタカさんに?
 私には? ねぇ、マスタ〜〜〜 私には?」

「いや・・・」

「ひど〜い!」

それから又、僕の方を向くと言った。

「愛ちゃんとそんな関係だったの?」

「違うよ。先週偶然本屋で会っただけ」

「・・・・・」

「ホントだよ」

里美はまるで
事件の容疑者を問い詰める刑事のような視線で僕を見た。


「で、それってどんな本なの?」

見かねたのか? マスターが助け船を出してくれた。

「うん。僕も読んだ事は無いんだけど・・・」


愛ちゃんが
知人(多分、彼なんだろう)に勧められてこの本を探していた事。
僕と話をしている時にたまたまこの本を見つけた事。
それから、愛ちゃんから聴いたこの物語の粗筋を簡単に説明した。

「・・・と、言う訳」

「ふぅ〜ん」

里美はまだ納得し兼ねている様子だった。
それから、パラパラと数ページをめくるとポツンと呟いた。

「愛・・・やっぱり迷っていたのかな?
 独りで寂しかったのかな?」

「でも、きっと・・・この本を読んで決断したんだよ。
 自分も成長しなきゃいけないって」

「そっか・・・」

里美はそう頷くとマスターに訊いた。

「ねぇ、マスター。お客さんも丁度いないし、叫んでも良い?」

「叫ぶって何を? 近所の人に通報されたら困るよ」

「ねぇ、良いでしょ?」

「まぁ・・」

その言葉を聴くや否や里美はカウンター席から立ち上がると
店の扉の方に向かって両手を突き上げて大声で叫んだ。

「愛ーーー! 頑張れーーー! ファイトッ!」



僕はこの時、
もうひとつの扉の前に立っている事に気が付いていなかった。



それから数か月が経った。

僕は相変わらず『珈琲茶房 扉』で、
いつものブレンドコーヒーを飲んでいた。

何度か里美とも顔を合わせる事があったが
軽く挨拶をする程度で、
里見は同じ常連グループの誰かがいる時は
そっちのボックス席に座っていた。

でも、里美も一人で来た時はカウンターに座った。
初めて会った時は
五席離れたカウンター席に座った里美だったが、
それから数週間に一席づつ間が詰まっていった。



年の瀬も迫った十二月に入った或る日。
仕事を終えた僕はいつものカウンターに座り、
いつものようにブレンドコーヒーを飲んでいた。

しばらくして店の扉を開けて里美が入って来た。
今日は里美の常連グループの誰もまだ来てはいない。
里美は当然のように僕とひとつ席を空けた隣の席に座った。


「マスター、私もブレンド」

「はいよ」

マスターは慣れた手つきで
挽いたコーヒー豆をスプーンで二杯サイフォンに入れると、
少しづつ回すように丁寧にお湯を注いでいった。
立ち上がるコーヒーの香り。

「良い香り」

里美はうっとりとした視線で
サイフォンからコーヒーの粉が液体になって落ちるのを見ていた。

「私ね。
 小さい頃、お父さんが美味しそうにコーヒーを飲んでいるのを見て、
 『飲ませて』っておねだりしたの。
 でも、ひと口飲んだら・・・『ウェー!』って。
 その時、誓ったの。もう絶対コーヒーなんか飲まないって。
 でも、いつからだろう?
 やっぱ、香りに誘われたのかなぁ〜
 今じゃ、コーヒーの無い人生なんて考えられないわ」

「酸いも甘いもって奴かな?
 大人になったって事だね。そう思わない?」

マスターが僕に声をかけた。

「だね。大人になるとコーヒーの苦味が解るんだよ」

「苦味かぁ〜 そうかも。大人って色々あるもんね」

「おー、大人の台詞だね?」

マスターが茶化すように言った。

「大人だも〜ん」

里美も合わせるように応えた。


「はい、どうぞ」

マスターは里美の前に煎れ立てのコーヒーをそっと置いた。

「これはおまけ。タカさんもどうぞ」

そう言われて出てきたのは艶々に磨かれた冬みかんだった。

「おー、冬だね。
 今年の初みかんだ。独り者は買ってまで食べないからなぁ〜」

「これ・・・?」

里美はマスターを見た。

「ピンポーン! これ、愛ちゃんから今日送られて来たんだ」

「やっぱり? わー、美味しそう!」

「ほんと、キレイな色だね」

「でさ・・・こんなカードが入っていたんだけど」

マスターは僕にメッセージカードを見せた。

「何? 何が書いてあるの?」

里美も覗き込んできた。


君からのメッセージカードにはこう書いてあった。

”みなさん、変わりないですか?

 もぎ立て正真正銘産地直送。
 柔らかくて甘ぁ〜いみかんですよぉ〜♪
 我が家の自信作です。みなさんでどうぞ。

 あっ、そうそう!

 ようやく私、
 おっぱいとみかんの区別がつくようになりました♪

                      愛 ”


「これの最後、どう言う意味だと思う?」

マスターが訊いた。

「これ・・・」

「解る?」

「これって・・・あの本の中にね。
 『隔離されて育った為に、
  おっぱいとオレンジの区別もつかない奥手な王様』
 と、言うような件があるんだ」

「本って、愛ちゃんが置いて行った?
 ん、何て言ったっけ?」

「『さびしい王様』」

「そうそう、それ、それ!
 そっか、愛ちゃん・・・やっぱり寂しいのかな?」

「いや、逆だと思うな」

「逆って?」

「この本の中ではね。
 おっぱいとオレンジの区別もつかないような幼い王様だったんだけど、
 冒険の旅に出てね、そして、やがて成長していくんだ」

「うん。私もそう思う。
 愛ね。確かに行ったばかりの頃は
 知り合いだって向こうの家族しかいないし、
 でも、旦那さんも忙しいらしくて、
 『ゆっくり二人っきりで話をする時間も無くて寂しい』って、
 そう言っていたけど。
 でも、秋くらいからは、何だか電話の声も活き活きしてたの。
 何でもね。
 近所の奥さん達と売り物に出せないみかんを加工品にしたりとかね。
 ジュースとかジャムとか色々アイデアを出し合って頑張っているみたい」

「ジュース? あっ、これか?」

マスターはそう言うと又、
カウンターの奥から1リットル瓶のオレンジジュースを出した。

「あー、マスターずるい! 一人で飲む気だったんでしょ!」

里美は立ち上がるとマスターにクレームを付けた。

「いやいや、違うって。でも、確かに美味しかったな」

「あっ、もう飲んだんだ! ひど〜〜〜い!」

「ごめん、ごめん。ちょっと味見をね」

「はい、マスター!」

里美はそう言うと
グラスの水を一気に飲み干してマスターの前に差し出した。

「はい、タカさんも出して。ほらほら」

「あっ、はい」

里美に急かされて僕がグラスの水を飲もうとした時、
マスターが苦笑いで止めた。

「良いよ。ちゃんとジュース用のグラスに入れてあげるから」

そう言いながら
後ろの棚から新しいグラスを二個取るとジュースを注いだ。

里美は出されたジュースの香りを愛おしそうにそっと嗅ぐと、
『うん』と、ひとつ頷いてから確かめるようにゆっくりと口に含んだ。

「美味しい!」

「うん。ホントだ。美味しい!」

僕も素直に同意した。
それから、さっきもらったみかんを掌で転がしながら眺めた。

「何か、良いね。うん、みかんが違って見える」

「ホント。タカさんの言う通りだね。愛は成長したんだ」

里美が嬉しそうに呟いた。
そんな里美を見て僕も嬉しくなった。


僕はみかんの皮を丁寧に剥くと、
白い筋の残ったみかんの実をそのまま頬張った。
甘酸っぱいみかんの香りが口いっぱいに拡がった。


その時、
僕はようやく新しい扉の前に立っている自分に気がついた。
でも未だ、
その扉の向こう側でも
その扉を開けようとしている人がいる事までは気が付いてはいなかった。


この話の続きは又、いずれ何かの機会にでも書こうと思う。




『珈琲茶房<扉>』

ここに入って来るお客さんも、
ここから出て行くお客さんもみんな同じ扉を開ける。

でも、一人で入って来たお客さんが出る時は二人になっている事もある。
時々、その逆もあるけど、それも又、きっと人生なのだ。

ノブを回す手の温もりを感じた時に扉は祈る。
<あなたに幸、多かれ>と。







































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