ネコと仔猫と僕達の日々
〜珈琲茶房<扉>の物語2〜







珈琲茶房<扉>の扉が勢いよく開いたと思ったら
入って来たのはネコだった。

ネコは真っ直ぐカウンターまで駆け寄ると
驚いた顔のマスターを見上げながら言った。

「マスター、ミルクある?」

「そりゃ、まぁ・・・ここは一応喫茶店だからね。
 ミルクくらいはあるけど・・・」

「じゃ、マスター。それ、人肌に温めてくれる?
 で、小さなので良いから
 ボウルか何かに入れてひとつ、大至急ね!
 あっ、絶対沸騰させないでよ! 火傷しちゃうから」

「えっ?」

ハトが豆鉄砲をくらうと言う言葉があるけど
今のマスターは
まさにそんな感じで呆気にとられたままネコを見た。

「あっ、安心して。お金はちゃんと払うから。
 もちろん、ボウルの分もね」

「い、いや、そういう事ではなくてさ。
 ネコちゃん、いったいどうしたの?」

「いいから、マスター! 早くお願い!」

「あっ、あぁ・・・」

ネコにそう責っ付かされて
マスターは訳が解らないまま厨房へと引っ込んだ。

呆気に取られて顔を見合わせていたのは僕と里美も同じだった。

ネコはじれったそうに
カウンターテーブルに手を付いて指先でトントン叩きながら
奥の厨房をジッと見ていた。

「ねぇ? ネコちゃん、どうしたの?」

僕が訊いたけどネコの耳には入っていないようだ。
又、僕と里美は顔を見合わせた。

そこにマスターが
小さなボウルに入れたミルクを持って厨房から出てきた。

「ありがとう、マスター」

そう言うや否や、
ネコはミルクの入ったボウルを受け取ると
大急ぎで店の扉を開けて出て行った。

「行こう!」

僕が言うまでもなく
里美はネコの後を追うように席を立っていた。

僕も慌てて席を立った。
マスターも何事かとカウンターの扉を開けて僕達に続いた。



大概の人は既にお気付きだと思うが。

”ネコ”はもちろん猫ではなく人間のしかも若い女性で、
もっと言うなら、里美の短大時代からの親友である。

根岸智恵子・・・ネギシの「ネ」とチエコの「コ」
そこから「ネコ」と言うニックネームが付いたとの事だったが、
それより何より、本人が大の猫好きなのはもちろん
実家ではかつては猫屋敷と言われるくらい十二匹の猫を飼っていた。

そんな事も由縁のひとつだったと思う。



珈琲茶房<扉>の駐車場は店の前と裏にあった。
裏の駐車場は
平日の昼間は仕事をサボる・・・
あっ、いや、
仕事の合間の息抜きをする営業マン達の格好の車の隠し場所になっていた。

そしてそこは夜になると僕達常連の車置き場となっている。


果たして、そこにネコの車が停まっていた。

後ろのドアを開けて
後部座席に半身を乗り入れた格好でネコは何かをしていた。

「ネコ?」

里美がネコに声をかけた。

「えっ? あぁ」

やっと僕達に気が付いたネコは
『静かに』と言うように唇に人差し指を立てると
目で後部座席を見るように僕達を促した。


ネコの車の後部座席には少し汚れた段ボールが置いてあった。

「ん? 何?」

その段ボールを覗き込んだ里美は思わず声を上げた。

「キャー、可愛い♪ 何? どうしたの?」

「えっ? 何?」

運転席のドアを開けると僕は前から後部座席を覗き込んだ。

「あー、仔猫!?」

「マジ?」

マスターも大急ぎで反対側に回ると
助手席のドアを開けて後ろを覗き込んでいた。


段ボールの中には可愛いピンクの花柄の毛布が敷かれていて
そこには仔猫が一匹、
美味しそうに音を立ててボウルに入ったミルクを飲んでいた。

仔猫は身体が黒くて手足の先だけが白い
以前のアメリカ大統領の愛猫も確かそんな名前だったと思うが
いわゆる<ソックス>と呼ばれている毛並みだった。

猫の見立ては解らないが
素人目に見て生後三〜四か月くらいだろうか?
小さ過ぎず、かと言って成猫でも無い。
明らかに仔猫の域には間違いないとは思う。
捨て猫の割には痩せてもいず、毛並みはキレイだ。
きっと、つい数時間前までは誰かに飼われていたのだろう。

それが証拠に
首の処に薄らだが首輪をしていたような跡が見てとれた。



「よし、今日はもう閉店にしよう」

店の中に戻るなりマスターが言った。

「えっ? マスター、まだ七時半だよ」

「緊急事態だからね」

マスターそう言うと
楽しそうに店の中に行燈を仕舞い
入口の扉にカーテンを引くと内側から鍵を掛けた。


ミルクに満足をしたのか
段ボールの中で身繕いをしている仔猫を囲んで見ていた僕達。
そこに戻って来たマスターが
学校の先生よろしく、手をパンとひとつ叩くと
おもむろにネコに向かって尋ねた。

「さぁ、ネコちゃん。説明を」



ネコの説明はこうだった。

仕事帰りにこの店に向かって
いつもの道を走っていると道路の脇に段ボールが見えた。
いつもなら、そのまま通り過ぎるのだろうけど
その時は何か気に掛かって
車を停めたネコは車をバックさせて又、その場所に引き返した。

そして、恐る恐る段ボールの中を覗き込むと
そこには一匹の仔猫がいて
お腹が空いていたのか、心細かったのか
震えながら<ミャーミャー>訴えるように鳴いていた。

そこでネコは
車に積んでいた自分用の毛布を段ボールの中に敷いてあげて
それから後部座席の段ボールが転がらないように気を付けながらも
店に向かって一目散に車を走らせた。



「ネコちゃんらしい話だね」

そう言いながらマスターは
いつの間に入れていたのか
トレーにコーヒーカップを四個載せてカウンターから出てきた。

コーヒーをそれぞれに手渡してから
マスターも自分の分のコーヒーを一口飲むとカウンターのイスに腰をかけた。

「さて、それでどうする?」

マスターが僕達に問いかけた。
僕と里美はマスターとネコを交互に見た。

「マスター、お願い!」

そう言うとネコは顔の前で手を合わせて
そして深々と頭を下げた。

「私、飼ってあげたいけどマンションじゃ飼えないし。
 実家は遠いし、何よりお父さんとお母さんももう歳だから
 今までみたいに猫の面倒は見られないの」

訴えるようにマスターを見ながら
もう一度ネコは深々と頭を下げた。

「いや、ネコちゃん・・・それは困るよ。
 ここだって一応、食べ物を扱う店だからさ。
 動物は困る・・・いや、そりゃ猫は嫌いじゃないけどさ。
 でも・・・困るよ」

「じゃ、自宅は?」

ネコが食い下がった。

「自宅はもっとダメだ。息子が喘息持ちでさ。
 動物って毛が飛ぶだろ?」

「じゃ、やっぱりお店で」

「いや、ダメだよ、それは・・・」

ネコが訴えるように僕達を見た。
それに呼応するように僕と里美もマスターに向かって頭を下げた。

「マスター、お願い!」

里美が言った。

「里美ちゃんまで・・・もう、ダメだよ」

「マスター!」

僕もマスターに向かって更に深々と頭を下げた。

「おいおい、止めてくれよ」

「猫のご飯は全部私が買って持って来ます。
 トイレ掃除も私が毎日来てやります。
 マスターに迷惑はかけません!
 だから、だから・・・お願い」

ネコは涙ながらに訴えた。

「いや、そう言う問題じゃなくてさ。
 もう・・・参ったなぁ・・・」

「じゃ、私・・お金を貯めて猫が飼えるマンションに引っ越します!
 だから、それまでの間だけもお願い」

困った顔のマスター。

僕と里美は顔見合わせるとニヤッと笑った。
マスターが籠絡するのは最早時間の問題と思えたからだ。

「でも、保健所からクレームが来るとマズイんだよなぁ〜」

僕が一押しした。

「でも、ほらっ。ドラえもんの中でもあったよね?
 閑古鳥の鳴いているラーメン屋さんだったか。
 ひょんな事から仔猫が居ついてさ。
 最初は嫌がっていたんだけど、
 最後は招き猫みたいになってお店が大繁盛したみたいな」

「でも、あれはマンガだろ?」

「いっそ、ネコカフェに模様替えしちゃう?」

里美は助け舟のつもりで言ったようだったが
それはどう見ても逆効果だった。

「里美ちゃん、他人事だと思って」

いつもはニコやかなマスターの顔が明らかに不機嫌になった。

「えへっ、ごめんなさい」

「ともかく、何とかしなきゃ。
 又、この仔を捨ててくる訳にはいかないんだからさ」

僕が呟いた。

「それは絶対ダメ!」

ネコが叫んだ。

「そりゃ・・まぁね・・・」

マスターが又、渋い顔をした。


そこにマスターの奥さんが裏口から入って来た。

「あらっ、今日はもう閉店? どうしたの?」

「あっ、こんばんは」

「何? どうしたの? みんな揃って何の相談?」

僕達が囲んでいた段ボールに気が付いた奥さんは
中を覗き込むと大はしゃぎで叫んだ。

「きゃー、可愛い♪ ねぇ、この仔、どうしたの?」


かくしてネコに拾われた仔猫は
マスターの奥さんの狂喜の一言によって
めでたく珈琲茶房<扉>の住人になる事と相成った。



「参ったなぁー 何処で飼えば良いんだ?」

マスターが頭を掻きながらキョロキョロと辺りを見渡していた。

「あらっ、あなたの”部屋”があるでしょ?」

奥さんがキッパリと言った。

「えっ? んー やっぱりかぁー」


厨房の奥にマスターが帳簿を付けたり
発注をする為のパソコンやファックスが置いてある三畳ほどの部屋があった。

机がひとつと事務用のイスがひとつ。
時々、マスターが転寝をしている二人掛けのソファがひとつ。
後は歩くスペースが僅かにあるだけの部屋だった。


マスターはその部屋を見渡しながら
顎に指を当てて想い悩んでいた。

「寝床は何処にしたら良いと思う?
 トイレも置かなきゃマズいよなぁー
 トイレはやっぱり、こっちの隅かな?
 でも、狭くなるよな・・・」

「このソファをもっと端に寄せたら良いんじゃない?」

奥さんがもっともな提案をした。

「えー? ちょっと待てよ。
 そしたら寝っ転がっても足が伸ばせないよ」

「だから?」

奥さんにそう言われたら
さすがのマスターも言葉を返せない。

「そうそう!
 確か、隆弘が赤ちゃんの時に使っていた
 ベビーバスケットがあったはずだわ。
 猫ちゃんの寝床に丁度良いわね。
 ちょっと探してくるわね」

奥さんがそう言い残して家に戻った後で
マスターはソファに座って深い溜め息をひとつついた。

僕達は事の成り行きを部屋の入口の外から固唾を飲んで見ていた。

「奥さん、ナイス♪」

里美が言うと僕達三人は顔を見合わせてガッツポーズをした。

その様子に気が付いたのかマスターが恨めし気に言った。

「お前らねぇー 他人事だと思ってないか?
 ここは俺の唯一の城だったんだぞ」

「いや、そ、そんな事は・・・無いよ。ねぇ?」

僕は里美とネコに同意を促した。

「う、うん。そうよ」

「あっ、そうだ! トイレだよね?
 じゃ、僕が買って来るよ」

こんな時は逃げるが勝ちだ。



時間は夜の八時少し前。
ホームセンターは危うく閉店になる時間だった。
僕は急いでペット用品売り場に行くと
猫のトイレとトイレの砂。
それから仔猫用の餌を何種類か見繕ってから
餌入れと水入れを買い物カゴに入れて
それから
家具売り場も覗いてみて下に敷く小さめのカーペットを買った。

『そう言えば、猫ジャラシっもいるかな?』

又、ペット用品売り場に戻った僕は
いくつもの棚に並ぶペットのおもちゃとかケア用品を眺めながら
自分で飼う訳でもないのにアレコレと想像を巡らせていた。

そこに『蛍の光』が流れてきた。

『あっ、ヤバい。閉店だ! 猫ジャラシは今度で良いや』

僕は急いでレジへと商品を持って行った。


『仔猫一匹で結構お金って掛かるもんだな。
 でも、マスターにばかり迷惑は掛けられないしな』

僕は店へと車を走らせた。



店に戻ると何故かソファの上にベビーバスケットが置かれていて
その中で仔猫が落ち着いたのか丸くなってスヤスヤと寝ていた。


「ただいまー」

「・・・おかえり」

マスターが不機嫌そうにこっちを見た。

「何? どうしたの?」

「どうしたもこうしたも無いよ。
 俺のソファを見てくれよ」

「あらっ、だから言ったでしょ? 当分よ、当分。
 トイレも置いてみないと、どのくらい場所を取るのか解らないし」

奥さんが澄まし顔で言った。

「あぁ、トイレね。買って来たよ。
 こんなんでどうかな?」

僕は特大のレジ袋から猫用のトイレを出してみんなに見せた。

「それ、大き過ぎないか?」

マスターが早々にクレームをつける。
どうやら、トイレの置き場所と空スペースには敏感になっているようだ。

「あぁ、良いんじゃない?」

「うん。色も可愛いね」

「でしょ?」

僕は抱えていた丸まったカーペットを広げると
部屋の隅に置いてから、その上にトイレを置いた。

「それ、場所取り過ぎじゃないか?」

「もっと寄せる?」

マスターに遠慮気味に訊いてみた。

「それで良いんじゃない?
 それくらいスペースがあったらベビーバスケットも脇に置けるんじゃない?」

「そうね。良い感じかも」

女性陣が話を進める。

「いや、でも・・・」

マスターの言葉を遮って奥さんが言った。

「じゃ、このままベビーバスケットはソファの上で良い?」

「いや、それは・・・困る・・・」

「じゃ、決まりね?」

奥さんの連戦連勝だった。


「ところでさ」

僕はみんなを見ると言った。

「名前は何にする?
 ネコちゃん、何が良い?」

「でも、マスターに飼ってもらうんだし。
 マスターに決めてもらって良いよ」

「いや、ネコちゃんが決めなよ。
 一応、当面はここで飼うけど、あくまでも飼い主はネコちゃんだからね」
 
マスターはそう言ってネコを見て微笑んだ。

「でも・・・」

「それに、いつか引っ越したら引き取ってくれるんだろ?
 言ったよね?」

マスターが言う言葉を聴き流すかのように里美が言葉を繋いだ。

「マスターがそう言ってくれるんだからさ」

「おいおい・・」

最早、苦笑をするしかないマスター。
さっきから女性陣にやり込められているマスターに
同じ男として僕はちょっとだけ同情をした。


「じゃ、みんなで考えて。
 ねぇ、なんかアイデア無い?」

と、ネコ。

「んー」

しばし、みんなの沈黙が続いた。
その間も仔猫は気持ち良さそうに眠っていた。
さすが”寝子”だと僕は思った。


そこにマスターが口を開いた。

「毛並み的には『トムとジェリー』のトムだよな?」

「ダメよ。そんなの。なんかマヌケちゃんになりそう」

奥さんがピシャリを釘を刺した。

「そもそも、この仔って男の子? 女の子?」

僕は誰となく訊いた。

「男だ」

間髪を入れずにマスターが答えた。

「えっ? マスター、いつの間に?」

「いやだぁー」

奥さんを除いた女性陣が頬を赤らめて笑った。

「じゃ、男の子っぽい名前ね?
 んー 何が良いんだろう?」

「毛並みから言って・・・『ソックス』も有りがちよねー」

「んー、だね」

そこで僕は思いつきを言ってみた。

「例えばさ。こんなのは?
 店の名前が<扉>なんだから『ドアー』とか
 フランス語だったら『ポルト』だったっけなぁー」

「ダメ。センス無し!」

「却下!」

「ムリ!」

みんなにべも無い。

「じゃ、何にする?」

「んー」

「そうねー」

「あっ、そうだ! ホームズとか?」

得意気に僕はみんなを見渡した。

「三毛猫? 違うし」

里美が冷たくあしらう。

「じゃ、どうするんだよ?」

僕はふて腐れて言った。

「どうせ、ダヤンも無しだよね?」

「当然よ。だいいち、トラネコじゃないし」

「だよねぇー」

そこをマスターが取り成した。

「よし、一度キャラクターから離れよう」

「んー そうね」

「何にしよう?」

「どうだろう? 例えばね」

マスターがひとつ提案を出した。

「例えばさ。
 子供の名前を付ける時って、
 良く親の名前から一字取ったりするでしょ?
 ネコちゃんが連れて来たんだからさ。
 ネコちゃんの本名って・・・ち、ち? 智恵子・・・だったよね?」

「んもう、マスター!
 まだ私の名前を覚えていないんですか?
 何年も通っているのに、ひどーい!」

「あれっ? 違ったっけ?」

「違ってませんけどぉー。でも、なんか自信無さそうだった」

「ごめん、ごめん。いっつもネコちゃんなもんだからさ」

確かに、僕も今までネコの本名は知らなかった。
もちろん、そんな事は今ここで口には出せないけど。


「それで?」

僕はマスターに訊いた。

「うん。ならさ。
 『ちえこ』の『ち』で『チー』なんて言うのは?」

「『チー』ね?」

「ありがちじゃない?」

奥さんがボソッと言った。

「でも、良いかも。可愛いし」

「そうね。私も良いと思うわ。呼びやすいもの」

「そうね。呼びやすいのが一番だわね」

奥さんも頷いた。

「良し、決まりー!」

珍しくマスターの意見が採用されてマスターはご満悦だったが
少しくらいはマスターの意見も聞いてやらなきゃね。
なんせ、チーの部屋の大家さんなんだから。
 


こうしてマスターとチーの同居生活は始まった。


厨房は火も使うし、油も使えばお湯も沸かすので
まだ慣れていないチーには危険だから何処でも勝手に歩かせる訳にはいかないと
マスターはチーを部屋に入れたままドアは閉めていた。

チーは部屋の中をウロウロと探検する以外は
ベビーバスケットの中で丸くなって寝ていた。
それでも、ドアが少しでも開いていようものなら
ドアの隙間から顔を半分覗かせて<ミャーミャー>と鳴いたり
手を隙間に入れてはドアを開けようとしてマスターを困らせていた。

まぁ、困らせると言っても
もちろんマスターは本当には困ってはいなくて
むしろ、そんな話を自慢気に僕達に話して聞かせた。

「今日さ、チーの奴がね」

「チーったらさ」

僅か数日のうちにマスターはスッカリとニヤけたお父さんの顔になっていた。
もっとも、本当にも隆弘クンのお父さんではある訳だけど。


チーがまだ店デビューをしていないからか?
招き猫効果はさほど現れずに珈琲茶房<扉>はいつもの平常営業を続けていた。

ただ、その効果は僕達常連には既に現れていて
ネコはもちろん、僕と里美も毎日店に顔を出すようになっていた。
でも、注文するのはいつもブレンドコーヒーばかりだったから
果たしてどれだけ売上アップに繋がっていたのは定かではないけど。

それから、もう一人。


マスターの奥さんは駅前のビルでブティックをやっていた。
ブティックは午後七時までの営業なので
奥さんは今までは店が終わるとすぐに帰宅をして
隆弘クンにご飯を食べさせ、残っていた家事をしていたので
喫茶店の方にはほとんど顔を出す事は無かったのだが
チーが来て以来、店が終わって帰宅をする前に必ずここに顔を出すようになっていた。

「あんなに今まで店に顔を出さなかったのにさ。
 チーが来た途端にコレだよ」

奥さんが家に戻って行ったのを目で追うとマスターはボソッと呟いた。
でも、その顔はまんざらでは無さそうだった。



今夜もカウンターには僕と里美が座っていた。
ネコはと言うと、いつも店に来るなりすぐにチーのいる部屋に籠っていた。

本当は僕も一緒にチーの顔を見に行きたかったのだけど里美に釘を刺されていたのだ。

「ネコが出て来たらね。それまではネコの邪魔はしないでおきましょ」

「本当はネコちゃん、自分で飼いたいんだろうな」

「そうね」

僕の言葉に里美が相槌を打った。


「そう言えばさ」

そこにマスターが割り込んできた。

「そろそろチーを予防接種に連れて行こうと思うんだ。
 何か病気があるといけないし、いずれ店の中を歩くようにもなるだろうからさ」

「そうだね。必要かも」

「何処か良い動物病院を知ってる?」

「動物病院? んー、今まで縁が無かったからなぁー」

「ネットで調べてみる? 口コミとかさ。もしかしたら評判も解るかも」

「そうだね。頼んで良いかい?」

「オーケー」


僕がスマホで調べていると里美が覗き込んできた。

「どれどれ? 何かある?」

「今、開いたばかりだよ。ちょっと待って」

「んもう、じれったい!」

「待って、待って。 あっ、これどう?
 口コミを読むと評判はけっこう良いし
 何より、ここからだと車で十五分くらいで行ける場所だよ」

「ねぇ、見せて」

そう言うと里美は僕からスマホを奪うように取った。

<里美って案外短気なのかな? 結婚したらやっかいかも?
 えっ? 結婚? このままだと、そうなるのかなぁー>

僕は知らずにニヤけていたようだ。
マスターと里美が不審そうな顔で僕を見ていた。



次の月曜日の定休日にマスターがチーを動物病院に連れて行く事になっていた。
その日、仕事に追われていた僕はマスターからのメールにも気づかずにいた。

仕事を終えた僕は車に乗り込むと何げなくスマホに目が行った。

<そう言えば、今日は忙しくて開く時間も無かったな>

と、スマホを立ち上げるとメールが一通入っていた。
マスターからだ。

≪今夜店に来れる?≫

それしか書いていなかった。

<何だろう? チーの事かな?>

嫌な予感がしたが、これだけではどうにも解らない。
とりあえず、エンジンを掛けると僕は店へと急いだ。


珈琲茶房<扉>の扉には
『CLOSED』の看板が掛かっていたが店内の灯りは点いていた。

扉を開けて中に入ると黒い小さな何かが足元から走り去った。

「おいおい、脅かしちゃダメだよ」

笑いながらマスターがチーを追いかける。

「ほらっ、チー。大丈夫だよ。優しいお兄さんだから」

「マスター?」

「あっ、ごめんごめん。休みの日くらいは少し広い所で遊ばせようと思ってね」

「なんだ、それで誘ってくれたの?」

「ん、まぁ・・・それもあるんだけど」

マスターの言葉の歯切れが悪い。

「どうしたの? 何かあった? チーの事?」

「うん、まぁ・・・
 もう少ししたら里美ちゃんもネコちゃんも来るから、それから話すよ」


それから程なくして、里美とネコがやって来た。

「こんばんは。マスター、話って何?」

入るなり、ネコが口を開いた。
すぐにチーが寄って行ってネコの足元にスリスリした。

「あらっ、チー! ここにいたの? 気が付かなかったわ」

そう言いながらネコは満面の笑顔でチーを抱きかかえた。

「さすが、チーはネコちゃんには寄って行くんだね」

マスターはそう笑いながら僕を見た。

「はいはい、どうせ僕はチーに逃げられました」

「まぁ、命の恩人だからしょうがないよ。ネコちゃんは特別なんだよ」

「僕だって、チーのトイレとか買いに行ったんだけどなぁー」

「文句は言わないの。仕方ないでしょ? ネコはチーのお母さんなんだから」

里美が僕を諭すように言った。

「で、マスター。話って?」

「うん。とりあえず座ってよ」

マスターはカウンターに僕達を手招きすると
いつものコーヒーカップを用意して、そこにコーヒーを注いでくれた。


三人はマスターを注視して出てくる言葉を待っていた。
チーはネコの膝の上で今にも寝そうな感じで目を閉じて丸くなっていた。


「今日さ、チーを動物病院に連れて行ったんだけどさ」

静かにマスターは話し始めた。



「あの、猫の予防接種をお願いしたいんですけど」

「いらっしゃいませ。こちらは初めてですか?」

「あっ、はい」

「それでは、こちらに記入をお願いします」

受付の女性は極めて事務的に問診票を差し出すと
内容の説明をし、それからボールペンを渡してくれた。


問診票を書いて受付に出すと
マスターは待合室のソファに腰を下ろした。

「ちょっと大きかったかな。
 チー、居心地はどうだい?」

横に置いたキャリーバッグを覗き込むとチーに声を掛けた。

ここに来る前に急いで買って来たので
大して大きさも気にしなかったけど
さすがに中型犬用のキャリーバッグはチーには大き過ぎたかも知れない。

『でも、すぐに大きくなるだろうし。
 第一、チーが成猫になるとどのくらい大きくなるのかも解らないしな』

「我慢してくれよな」

チーは不安気にマスターを見上げるとか細く<ミャア>と鳴いた。

「ごめんよ。もう少しの辛抱だからさ」


「遠藤チーさん」

十五分くらいすると名前を呼ばれて診察室に入った。


<遠藤>と言うのはもちろん、マスターの事。
遠藤完司・・・これがマスターの名前だ。

マスターは昔いたフォークシンガーの名前に似ているからと
あまり本名を明かしたがってはいなかった。

しかし、「カレーライス」を歌っていたフォークシンガーと
喫茶店でカレーライスを作っている名前の似たマスター。
何だか、共通点が面白いと僕達常連は密かにほくそ笑んでいた。
もちろん、不機嫌になるだろうからマスターには聞こえないように。


「よろしくお願いします」

そう言うとマスターはチーの入ったキャリーバッグを診察台の上に乗せて
バッグの入口を開けると奥で小さくなっていたチーを抱えるように取り出した。

「えーっと、『遠藤チー』ちゃんね? こんにちわぁー」

四十代の半ばくらいだろうか。
問診票に目を通すと
にこやかな笑みを浮かべた女医さんは
子供をあやすかのような仕草をしながらマスターに抱かれていたチーを撫でた。

最初は緊張からか警戒してか、マスターの腕の中で震えていたチーだったが
女医さんが声を掛けながら撫でているとすぐに落ち着いてきたようだった。

『さすがだな』

昔、隆弘が夜に急に熱を出した時に連れて行った小児科の医者も
愚図っている子供をあやすのが上手だったっけ。
その時も
扱い方が慣れていると言うよりは、やはり子供が好きなのだと思った。
子供は自分を好きな人と嫌いな人を本能的に選別していると何かの本で読んだ事があった。
きっと、動物もそうなのに違いないと改めて思った。


「今日は予防接種でしたね?
 特に気になっている事はありますか?」

女医さんはマスターに尋ねた。

「いえ、特には」

「そう。えーっと、どれどれ?」

女医さんがチーを触診していた。
その時。

「あらっ?」

「えっ? 何か?」

「あっ、いえ・・・ごめんなさい」

それからチーを抱きかかえると女医さんはしばらく色々な角度から見たり
あっちこっち触りながら何かを確かめてでもいるようだった。

「あの、何か問題でも?」

恐る恐るマスターは訊いた。
女医さんは優しくチーをキャリーバッグに戻すと逆にマスターに尋ねた。

「チーちゃんはいつから飼っているんですか?
 産まれた時から?」

「あっ、いえ。実は・・・」

マスターはネコがチーを拾って来た顛末を説明した。

「そう・・・」

女医さんは深く溜め息をつくとマスターにイスを勧めた。
それから女医さんは壁際のキャビネットから一枚のカルテのようなものを取り出してきて
マスターの隣のイスに腰を下ろした。


「お名前は申し上げられませんが」

そう前置きをして女医さんは説明を始めた。


「この仔は多分・・・私が三週間程前に診察をした仔猫に間違いありません」

「えっ? どうして解るんですか?」

プロに対しては愚問だと思いながらも訊かずにはいられなかった。

「先ず・・・毛並みね。
 同じような模様でも猫によって模様の入り方は微妙に違うんです。
 それから顔ね。人間の顔が違うように猫もそれぞれ顔立ちが違うんです。
 目の大きさとか丸さとか耳の立ち方とかね。
 それから、骨格。後ろ脚の蹴る強さとか。
 後、私的には肉球の触り心地かな」

「・・・」

「今まで何百・・いや、何万かな。
 色々な猫ちゃんやワンちゃんを見てきているので初めての子かどうかは大体解るんです。
 もっとも、人間がそうなように親子とか兄弟とか極めて似ている場合もありますけどね」

「はぁ・・・」

「あらっ、『それが何だ?』って顔ですね」

「あっ、いや・・・そんな」

マスターは自分の心が見透かされたかのようで恥ずかしくなった。

「だとすると・・・」

「はい」

マスターは胸騒ぎを押えながら女医さんの次の言葉を待った。


女医さんの言葉は予期せぬ唐突なものだった。

「猫エイズってご存知ですか?」

「えっ? エイズですか? いえ・・・えっ? まさか、チーが?」

「まぁ、落ち着いて話を聞いて下さい。
 エイズと言っても猫の場合にはそんなに珍しい事ではないんですよ」

『エイズ』と聞いて頭が真っ白になっていたマスターに
女医さんは淡々と説明を始めた。


猫エイズとは、
猫後天性免疫不全症候群(AIDS)や猫免疫不全ウィルス(FIV)感染症を総じて言い、
FIV(Feline immunodeficiency virus = 猫免疫不全ウイルス)に感染する事により、
猫及び猫属の哺乳類(トラなど)が引き起こす諸症状を指します。

生物は自己を他己から守る為に免疫という機能を持っていますが、
FIV感染後症状が進行すると、その免疫機能が駄目になってしまい、
元気であれば問題ない微生物等でも重い症状を出してしまったりします。
症状が進行した結果死に至る病が猫エイズです。

ですが、FIVに感染しているだけ、つまりFIVキャリアであれば、
普通の健康な猫となんら変わりなく生活を送る事が出来ます。
なのでくれぐれも、FIVキャリアと猫エイズ発症を混同しないで下さい。

FIVウイルスの主な感染経路は、交尾・ケンカによる体液の接触感染であり、
出産時の母子感染も確認されています。
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)と同じレトロウイルス科レンチウイルス属に分類されますが、
猫及び猫属に特異的なウイルスであり犬や人に感染する事はありません。


こんな専門的な話を一度聞いただけでは素人にはチンプンカンプンだったが
とりあえず、只事では無いと言う事だけはマスターにも解った。


「じゃ、チーは・・・猫エイズなんですか?」

「いえ、そうではありません。
 今の状態はただ<キャリア>であるだけですから」

「つまり?」

「えぇ、未だ発症はしていません。
 だから、当面は安心していても大丈夫でしょう」

「調べる事は出来るんですか?」

「えぇ。四週間前に検査をして三週間前に飼い主の方に結果を説明をさせて頂きました。
 検査方法ですが・・・」


これらの検査は主に血液を少量採取し、
専用の検査キットで検査する事により感染の有無を調べる事が出来ます。
二ヶ月以上室内飼育で他の猫との接触のない成猫では一回の検査で判断出来ますが、
注意しなければならないのは、
新しく迎え入れた猫や生後六ヶ月齢以下の仔猫の場合です。

FeLV(猫白血病ウイルス感染症)に関しては
どの年齢でも陽性の検査結果が出れば感染を示唆する事になりますが、
FIVの場合は少し事情が異なります。
FeLVの検査は感染しているウイルスそのもの(抗原)を検出しますが、
FIVでは感染したウイルスに対する体の反応(抗体)を調べています。
そしてこの抗体は母猫から子猫に受け継がれる事がありますので、
その譲り受けた抗体が検査結果に陽性という形で反映されてしまう事があるのです。

その為、生後六ヶ月齢以下でFIV検査の結果が陽性と出た場合には、
一歳齢前後でもう一度確認検査をする事が勧められます。
母猫から抗体を譲り受けただけの場合には、
その抗体が消失していきますので再検査で陰性になる事もあります。
その猫自身がウイルスに感染していた場合には再検査でも陽性と結果が出ます。
再検査で陽性と出た場合には、その猫がFIVに感染していると考えて良いでしょう。

また、いつ感染したかという時期も検査に影響を及ぼします。
FIVでは感染してから約二ヶ月後、FeLVでは感染してから約一ヶ月経たないと、
検査結果として反映されてきません。
検査の時期によっては、
感染しているのに結果が陰性として出てきてしまう事もあるのです。


「くれぐれも申し付けておきますが」

女医さんはマスターをシッカリと見据えながら続けた。

「先ず、猫エイズキャリアと猫エイズは違うものだとお考え下さい。
 猫にとって悲劇なのは、
 それらが世間で最も多く混同をして勘違いされている事なんです。
 猫免疫不全ウイルス感染症(猫エイズキャリア)と
 猫後天性免疫不全症候群(猫エイズ)とは別の病態と言うか
 言い換えたら、進行度の違いであるのに関わらず、
 同じ病気だと思われている方が多いのです。
 そして、同じ病気だと思われているがために、
 抗体検査で抗体が検出された時点で、
 猫後天性免疫不全症候群(猫エイズ)を発症していないのにも関わらず、
 <猫エイズの猫>と思われているんです」

「えっ? ちょ、ちょっと待って下さい。
 その・・猫エイズと猫エイズキャリアは違うんですか?
 進行具合の違い? って、事は同じ病気・・・ですよね?
 んー、すみません、何だか頭がこんがらがってます」

「そうですね。
 まぁ、確かに言ってみれば感染をしているだけなのか? 発症しているのか?
 そう言う事ではあるんですが、ここは明確に”区別”されています。
 FIV陽性だとしても、無症状のキャリア期と言うのが
 猫によって、感染をしてから発症まで四〜五年だとか
 中には十年以上も発症をせずに天寿を全うする猫もいるんです。
 猫エイズのステージは四段階ありますが、
 それぞれのステージでの滞留期間もまちまちですし
 ひとつひとつのステージがとても長い猫もいますから
 発症してから一年以内に死亡する猫は約二十%で
 それ以降に関しては感染をしている猫もしていない猫も
 生存率はほとんど大差無いと言う研究発表もあるんです。
 だから、あまり悲観せずに、
 これからの毎日をどうやってチーちゃんと楽しく暮らすか?
 そう言う前向きな接し方をしてあげて下さいね」

「えーっと・・・」

マスターは混乱していた。

「すみません、確認させて下さい。
 チーは猫エイズウイルスのキャリアではあるが猫エイズでは無い?」

「えぇ、何度も言いますが。
 チーちゃんは今のところ、ただの<キャリア>なんです。
 しかも、チーちゃんの月齢を考えると
 母猫から抗体を受け継いだだけの可能性もあります。
 その場合は抗体は徐々に消滅をしていきますので再検査で陰性になる事もあります。
 なので、そうですね。半年後くらいにもう一度検査にお越し下さい」


女医さんはすごく丁寧に説明をしてくれたんだろうが
一度聞いただけで理解するのは素人には無理があった。
それでも、とりあえず・・・とりあえずではあるけど、
チーが今すぐどうなると言う状態ではないのは何となく理解は出来た。


「例えば・・・例えばですけど。
 もし、チーが発症したらどうなるんでしょう?」

「そうですね・・・一概には言えませんが
 数か月以内には亡くなってしまうでしょう」



マスターは説明を終えるとコーヒーを一気に飲み干した。
僕達は突然の事に声も出せずにいた。


「それで・・・チーは? チーはどうなるの? 可哀想・・・」

最初に口を開いたのはやはりネコだった。
ネコはそう言うなりチーをギュッと抱き締めた。
それに応じるようにチーは<ミャア>と小さく鳴いた。
まるで<どうしたの?>とでも言うように。

「解らない・・・解らないんだ。
 でも、少なくとも今すぐどうこうなる訳ではないらしい」


そんなマスターの言葉も今の三人にとっては気休めにしかならなかった。
それは多分、マスターも解っていただろう。
四人の間に重苦しい空気が流れた。


「でも、チーはチーだよ」

重苦しい雰囲気を打ち壊すように僕は努めて明るく言ったつもりだった。
でも、誰もその言葉には反応しなかった。
ネコはチーを抱きかかえたまま俯いていた。
里美もどう答えたら良いのか解らないまま、ただ涙を拭いていた。
マスターは無言で宙を見ていた。

そこに里美が涙声で小さく呟いた。

「もしかして・・・猫エイズキャリアだったから・・・
 チーは・・・チーは捨てられたのかな?」

「里美・・・」

「ねぇ? そうなのかな?」

里美は僕を見た。
その眼は僕に否定をして欲しかったに違いない。
でも、僕には明確に否定が出来なかった。

「そうかも知れないけど・・・
 でもさ。検査の結果が解ってからチーが捨てられるまで
 一週間か十日くらい間があったんだよね?
 と、言う事は、前の飼い主もその期間は苦しんだと思うんだ」

「でも、だからって!」

「そう。だからって捨てて良いと言う事にはならない」

「むしろ、こう考えようよ」

マスターがみんなを見渡して言った。

「チーはネコちゃんに拾われて俺達の所に来る運命だったんだ。
 良いじゃないか。チーがキャリアだって何だって。
 チーは最後の最期まで俺達と楽しく暮らすんだ」

「マスター・・・ありがとう・・・」

ネコは涙ながらにマスターを見た。



それから二ヶ月ほどが経ったが、
チーは順調に成長し体重も三kgくらいにはなっていた。
だいぶ、大人っぽい身体付きになっていて
マスターに言わせると顔も<猫界のイケメン猫>なんだとか。
相変わらずの親バカぶりを発揮していた。

この頃になるとチーもだいぶ店に慣れて
今ではすっかり我が物顔で店内を歩き回っては
お客さんに<ミャア>と挨拶(?)をして回ったり
カウンターの隅を占領しては
ネコが持ってきたクッションの上でさも当然とでも言う体で丸くなって寝ていた。

アイドル猫効果か? 看板猫効果か? はたまた猫好きの口コミ効果か?
確かに、チーが店に出るようになってから客足は伸びていた。
しかし、中にはそれを快く思っていない常連客もいた。


「ねぇ、完ちゃん」

店に入ってくるなりそう言ったのはマスターのお母さんの友人でもあり町内会婦人部長で
<扉>開店以来、何かと会合がある度にこの店を利用してくれていた松田夫人だった。

「悪いんだけど、あの猫ちゃん何とかしてくれない?」

「えっ? チーですか? 何かご迷惑でも?」

「そうじゃないけど。でもね、食べ物屋さんに動物は良くないと思うわ。
 猫って毛も飛ぶでしょ? 集まりに来る人にも猫が苦手な人もいるのよ。
 もちろん、私は違うわよ。私は猫が好きなんだけどねぇ・・・」

「はぁ、でも。チーは不衛生にならないように毎日ブラッシングもしています。
 チーは嫌がるけどシャンプーだってちゃんとしています。
 それに、チーが来てから逆にけっこうお客さんも増えているんです」

「そうは言ってもねぇ」

松田夫人はしばし沈黙を保った後で意を決したように口を開いた。

「あのね。出来れば・・・こんな風には言いたくは無かったんだけど」

「はい」

「完ちゃん。昨日、猫ちゃんを連れて動物病院に行ったでしょ?」

「えっ? えぇ・・まぁ」

「何か病気なの?」

「い、いえ・・病気と言うか・・・そ、そう! 予防接種ですよ」

「本当かしら?」

「もちろんです!」


確かに昨日は店が休みだったのでマスターはチーを連れて病院に行っていた。
万が一に備えて二ヶ月に一度、検査に通っている。
検査の結果は来週だが、女医さんの話では変化は現れていないとの事で
僕達はみんなホッと胸を撫で下ろしていたのだった。


「田中さんがね。知ってるでしょ?」

「はい、良くご一緒されている方ですよね?」

「田中さんが動物病院に行った時あなたが診察室に入るところを見たそうなの。
 それで気になって診察室前のポスターを見るふりをして
 それとはなしに話声が聴こえないか聞き耳を立てていたらしいの。
 そしたらね。詳しい話までは解らなかったんだけど・・・」

松田夫人はフーッとひとつ深呼吸をしてから言った。

「時々、猫エイズがどうとか聴こえたらしいのよ。
 それで、ビックリして私のところに言いに来たの。
 ねぇ? どうなの? 本当なの? 本当ならマズイんじゃない?」

「いや、それは・・・」

「本当なのね?」

「いえ、違うんです。と、言うか・・・」


マスターは憶えている限りの”正確さ”で
以前、女医さんから聞いた猫エイズと猫エイズキャリアの違いの説明をした。


「ですから、チーは大丈夫なんです。
 昨日も診察をしてもらって、そう言われてきたところなんですから」

「そうは言ってもねぇ。でも、こういう噂って広がるのが早いわよ。
 良い噂なら良いんだけど、こういうのって尾ひれが付くから」

「すみません。松田さんにご迷惑をかけるつもりは無いんです。
 でも、だからって俺はチーを見捨てるなんて出来ませんし
 何とか、ご理解頂けないでしょうか?
 もちろん、万が一・・・チーが発症とかなったら
 その時はきちんとケジメは付けるつもりですから」

「そうね、解った。完ちゃんの言う事だものね。嘘は無いって信じるわ。
 じゃ、田中さんには私からそれとなく大丈夫だって言っておくわ。
 あっ、そうそう!
 お母さんに今度お茶飲みに来てって伝えておいて」

そう言うと松田夫人は笑って手を振った。

「すみません。ありがとうございます」

マスターは松田夫人の背中を見送りながら深々と頭を下げた。



こんな話が有った事はずっと後になってマスターから聞いたのだった。

その松田夫人も今ではすっかりチーにぞっこんの様子で
何かにつけて
チーにお土産とばかりにペット用の煮干しだとかおやつを差し入れてくれていた。

「ほら、今日もね」

そう言いながらマスターはパックに入ったソフトタイプの餌を見せてくれた。

「松田さん家は動物なんか飼っていないのにね」

そう言ってマスターは笑った。

「松田さんって本当は動物が好きなんだね」

「あぁ、以前は犬を飼ってたらしいんだけどね
 その犬が亡くなった時、娘さんが大泣きをしたらしいんだ。
 で、ショックで何日か学校を休んだんだって。
 それで可哀想になってもう動物を飼うのを止めたらしいよ」

「あー、それ解るなぁー。
 僕もね、犬とか猫とかインコとかさ。
 親も動物好きだったから次から次と飼ってたんだよね。
 それも高価な血統書付きとかじゃなくて他所からもらって来た雑種ばかりだったけどね。
 一人っ子だったからさ。
 親にしたら僕が寂しいだろうからって兄弟の代わりにって思ったんだろうな」

「良い話だね」

「でも、やっぱり飼ってた動物が死んだ時は泣いたよ。
 そしたら又、何処かから次の動物をもらって来てくれてさ」

「そっか」

「子供の時ってさ。身近に動物がいると命の勉強になるよね。
 もちろん、楽しい事ばかりじゃないけど。
 死んだら、そりゃもう悲しくてさ。
 でも、だから・・なのかな?
 その分、動物って愛おしいよね。
 で、大人になると今度は癒しになったりしてさ。
 ・・・動物って良いよね」

「なんだい? 急にしみじみと」

「あはは、何となくね」

「そういや知ってる? <犬星と猫星>の話」

「犬星と猫星?」

「あぁ。何でもね。人間はその昔、犬星と猫星から地球に来たんだって」



 
遥か太古の昔。
 人間の祖先はふたつの星から地球にやって来ました。

 ひとつの星は犬星と言いました。
 そして、もうひとつの星は猫星です。


 一緒に連れて来られた動物は
 それぞれ故郷の星の名前を付けられて
 それからずっと人間と共に生きてきました。

 犬は人間の忠実な友として
 そして家族として人間に笑顔と勇気を与え続けてきました。

 それは人間にとっては希望でした。


 猫は人間に知恵を授け闇夜から人間を守り
 いつも少し離れたところから隣人として人間を見守ってきました。

 それは人間にとっては安心であり心の支えと言えました。


 狼が満月に向かって吠えるのも
 月の遥か向こうに在る故郷を懐かしんでいるのです。

 猫が時々、宙をじっと見ているのも
 時々、目覚める太古の記憶がそうさせているのです。

 その姿を見て
 宇宙や霊と交信をしていると言う人もいますが
 実はそれは半分当たっているのです。


 人間は概ね犬好きと猫好きに大別されます。

 猫が嫌いだから犬が好きなのではなく犬が好きなのです。
 犬が嫌いだから猫が好きなのではなく猫が好きなのです。

 時として、そうでは無い人やどちらも好きな人
 どちらも嫌いな人がいますが
 それは、生まれた後の経験やトラウマ
 或いは、いつかの時代の中に起きた原因によってそうなったのであって
 本来、人間は犬や猫が好きなのです。

 それは理屈ではありません。

 しいて言うなら人間のDNAに刻み込まれている太古の記憶が
 意識をする、しないに関わらず親しみや愛情となって表れているからなのです。

 それこそがつまりは人間の故郷が猫星と犬星だった由縁なのです。


 そして幾つもの時代の中で知識や記憶を次の世代へと伝えて来ました。
 人間も、そして、犬や猫も親から子へ、そしてまた子へと・・・




「ふぅーん、なるほどね。あながち信じられない話じゃないね」

「だろ?」

「あらっ、何の話?」

そう言いながら里美とネコが店に入って来るとカウンターの隣に座った。

「あぁ、ちょっと高尚な話をね」

マスターはそう言うと僕にウインクをしてみせた。

「あー、きっと良からぬ相談だわ」

「そ、そんなんじゃないよ」

「えー? 怪しい!」


そこに<ミャア>と助け船の如くひと鳴きをして厨房の奥から出て来ると
チーはカウンターの上にヒョイと飛び乗ったかと思うと
すぐにネコの膝の上に降りて、ここが定位置とばかりに早速丸くなった。

それを見ていたマスターが笑いながら言った。

「ネコちゃん、これじゃ当分彼氏は無理だね」

「あらっ、チーが彼氏ですから」

「あれっ? お母さんじゃないの?」

「良いの、どっちでも。可愛いんだもーん♪」

「まぁ、確かにね」


確かに、チーが来てから僕達は良くここに集まるようになり
前よりもみんなの話題が増えたような気がする。

もちろん、その中心にはいつもチーがいた。

チーが小さな身体で抱えている大きな病気の問題は
これからどうなるかは解らない。

でも、そんな事は今考えても仕方のない事なんだ。

『ずっと一緒だよな?』

僕はネコの膝の上で丸くなっているチーを眺めながら心の中で呟いた。

「あら、何?」

里美が僕を見て言った。

「いや、別に。可愛いなと思ってさ」

「いやだ、私?」

しょってる里美が満面の笑みを浮かべて僕の肩を軽く小突いた。

その時、チーが目を開けたかと思うと少し頭をもたげて
<ミャア>とひと声鳴いて又、すぐに元の態勢に戻って寝直した。

「ほら、チーもそうだって♪」

里美は何処までもポジティブなようだ。
僕には<うるさいにゃあ>って聞こえたんだけどね。
ただその真相は今度、猫語を勉強してから改めてチーに訊いてみる事にしよう。

「あはは、まぁ・・・」

僕は苦笑いの体で飲みかけの珈琲を飲み干した。

「何よ? 文句、ありそう」

口を尖らせて里美が僕を問い詰めた。

「あはは、そんな事はないよ」

「どうだか。ねぇ、マスター?」

「さぁね、痴話ケンカは猫も喰わないってさ」

洗った食器を拭きながらマスターがニヤッと笑った。

「えー? そうなの、チー?」

里美が真面目な顔でチーに訊いた。
聴こえているのかいないのか
チーは我存じぬと言う様子でネコの膝の上で丸くなったままだった。

「こう言うとこって、やっぱり猫なのよねー」

チーを見ながら里美が笑った。

「だって猫だもーん」

笑いながらネコが応えた。

「そう言う事」

磨いたグラスを蛍光灯に翳しながらマスターが澄まして言った。

「でも、良いよね。こう言うの」

僕は昔、家で猫を飼っていた頃を思い出していた。
寒い冬、赤々と燃えるストーブの一番前の特等席ではいつも猫が丸くなって寝ていた。
寝ているだけなのに、それを見ては家族の話が弾んだ。
時々猫がゴロンとひっくり返ると、みんなで大笑いをしていた。
猫<動物>のいる暮らし。家族と過ごす毎日。
そこにはいつも笑顔があるんだ。
そして今、ここにはチーがいて、チーを囲んで僕達の話にはいつも笑いが絶えない。
そう、まるで仲の良い家族のようにさ。




















































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