営業マン Y氏の純情








50歳を目の前にして
私は当時勤めていた会社を突然リストラされました

「まぁ、何とかなるさ」

根っからお気楽性格の私

いや、何とかなるって思ってたんですよね〜


でも、現実はそう甘くはありません

1カ月、2か月過ぎるうちに
やっとそう思い始めました


そりゃそうだよね
考えたらすぐに分かりそうなもんです

50歳の人間を雇うなんて
よほどの慈善事業家じゃなければ
甘い言葉で誘惑をして
挙げ句の果てに
僅かなお金で自分の臓器を売られてしまうとか
そんな悪徳商法くらいしかないんじゃないかな?(笑)

そんな事すら頭をもたげるようになっていました



そんな或る日

ふと見た新聞の募集広告

その会社は
おそらく日本中の誰もが知っている超有名企業
しかも募集は1名です


「こりゃ、応募する前から無理だわな。
 倍率はかなり高そうだし」


そう思いながらも
藁をもすがる思いで
ダメ元で履歴書を送りました


『○月×日、当社4階会議室にて
 選考試験及び面接を行います』

送られて来た試験の案内状を握りしめて
当日、その会社に向いました



事務所に入り受付に行くと
奥から小柄で愛想の良い女性が出てきました


「はい、Yさんですね?
 聞いております。
 今、ご案内をさせていただきます。
 こちらにどうぞ」


試験会場に入ると
すでに2〜30名の応募者が座っていました


「どうぞ、空いている席にお座り下さい。
 まもなく担当の者が参りますので。
 頑張ってくださいね」

ニコッと私に向って微笑みかけると
その女性は事務所に戻って行きました


それが私とMさんとの出会いでした


「いやぁ〜 こりゃ凄い競争倍率だな。
 しかも、みんな頭良さそうだし。
 こりゃ、きっと無理だろうな。
 それにしても、愛想の良い女性だったなぁ〜
 あんな子と働けたら良いんだけどな」

そんな第一印象から話は始まって行きます



「おはようございます」

「あっ、Yさん。 おはようございます。
 どうぞ、こちらに。
 今、席に案内しますね」


もし私にとって幸運の女神がいるとしたら
きっとMさんに違いありません

私は一次試験を通り面接をくぐり抜けて
晴れて正式採用の辞令をもらう事になったのです


「どうぞ、席はここになります。
 もうすぐ支社長が来ますから
 それまでリラックスしていてくださいね」


それから何かにつけて
慣れない私に声をかけてくれたMさん


5時の終業の後もパソコンとにらめっこの私に

「大丈夫ですか? 終われます?」

とか

「何か手伝いましょうか?」


外回りの仕事は慣れているとは言え
全く異業種での再出発

しかも、専門的な知識も要求されます

当然、仕事をしていく上で必要な資格も取らなければなりません

50の手習いとは良く言ったもので
私がその立場になるとはつい数ヶ月前まで思いもしませんでした


「あの、これってどうしたら良いんでしたっけ?」

何かにつけて頼りになる娘のような年のMさん

そんな私の問いかけにも嫌な顔ひとつしないで
丁寧に教えてくれます


娘のようにと書きましたが
小柄で童顔なので
歳よりもかなり若くは見えますが
30代半ば

当然結婚もしていて
ご主人の転勤で当地に来て3年だそうです

そして派遣社員として
この会社に勤めて2年半

若い女性社員からは姉のように慕われているのも
Mさんの人柄からすると良く分かります



私が入社して半年が経った頃

外回りから戻って
エレベーターホールに行くと
Mさんが丁度エレベーターを待っていました

「あっ、Yさん、お帰りなさい」

「あー、ただいま。 お使い?」

「はい、郵便を出してきました」

「ご苦労さま」

「ふふ」

「えっ? なんか変?」

「いえ、Yさんもすっかり慣れたんだなって思って。
 あっ、生意気言ってごめんなさい」

「いや、とんでもない。 Mさんのお陰ですよ」

「私なんて、そんな事ないですよ。
 でも、もうYさんも一人前ですね」

「いや、まだまだ分からない事が多くってさ〜」

「誰だって、そうですよ。
 まだ半年なんですから・・・
 あっ、エレベーターが来ました。
 どうぞ、お先に」

「いやいや、Mさんからどうぞ。
 レディファーストですからね」

「いえいえ、Yさんから・・・」

「年寄りを大事に・・・ですか?」

「そんなぁ〜 違いますよ!」

「あはは、じゃ、お先に」

「はい」


先にエレベーターに乗り込むと
私は事務所のある5階のボタンを押した

動きだすエレベーターの中
ちょっとした沈黙

そんなぎこちない緊張感を和ませようと
私は努めて明るく言った

「いやぁ〜
 エレベーターみたいな密室で女性と2人なんて
 何だか、緊張しちゃうね」

「またぁ〜 私相手に緊張も無いでしょ?」

いつもの笑顔でMさんは答えた


「いや、緊張するよ。
 こう見えても結構小心者だからさ」

「何処がですか?
 誰も信用しませんよ〜」

「えー? バレバレ?」

「うふふ」

「あはは」


エレベーターが5階に着いてドアが開いた


「どうぞ」

私はわざとおおげさに手を横に差し出し
開いたドアにMさんを導いた

エレベーターを降り際にMさんはポツリと言った

「Yさんが一人前になるのは嬉しいんですけど
 最近はあまり質問とか少なくなって
 話す機会も減ったから
 ちょっと寂しいな・・・」

「Mさん・・・」

「なんてね」

「おいおい、何だそれ?」


Mさんは舌をペロッと出して
悪戯っぽく笑うと
事務所の入り口に向って駆けて行った

そのMさんの背中に向って
思わず独り言が口をついた

「おいおい、そんな言い方されたら惚れてまうやろ」


何処かで聴いた芸人さんのギャグみたいに
そう言った瞬間にエレベーターのドアが閉まりかけた

「おっと! 待って、降ります、降ります!」

慌てて、閉じかけたドアに手を差し出すと
エレベーターのドアは渋々かのようにまた開いた

「ふぅ、危うくまた1階に戻ることだったわ。
 あそこでドアが閉じるってのは
 やっぱ、諦めろって事かな?」

思わず苦笑い

そうだね
そんなに人生なんて上手くいくもんじゃない

そんな事はもう何回も経験をしてきたんだから

そう、そんなもんだよ

私は自分に言い聞かせるように呟いた



北海道の長い冬もやっと終盤を迎え
昼間の陽射しが暖かく感じられるようになった3月

夕方からの会議に備えて早めに事務所に戻ると

「ご苦労さまでした」

そう言ってMさんがコーヒーを持って来てくれた


「あー、ありがとう。
 ごめんね。 コーヒーなんか入れさせて」

うちの会社は各自が自分の好きな飲み物を
給湯室に置いていて
誰かが入れてくれるなんて事はない


「いえ、いつもYさんにはお世話になっていますから」

「いやぁ〜、それはこっちだよ。
 もう1年になるって言うのに
 未だにMさんにはお世話に成りっぱなしでさ」

「そんなこと・・・」


何かいつものMさんと様子が違っていた事に
その時初めて気がついた

「Mさん、何かあった?」

「・・・あの」

「ん?」

「主人が4月1日付けで転勤になるんです。
 それで、私も今月いっぱいで退社をする事になりました」

「えっ? ホントに?」


突然のMさんの言葉だった

私は何一つ気の利いた言葉を言えなかった


「そっか・・・そうなんだ・・・」

そう言うのが精いっぱいだった


「本当にお世話になりました」

「いや・・・俺こそ・・・
 寂しくなるね・・・」

「私もです・・・
 あっ、でも今月末まではいますから
 もう少しですけど、よろしくお願いしますね」

「あっ、いや・・こちらこそ」


普段は人生50年の経験が物を言うなんて
偉そうな事を言っていたのに
こんな時はからっきしだらしのない男になる

「そっか・・・そうなんだ・・・」

私は呪文のように同じ言葉を呟いていた


「あれっ? どうしたんですか?」

帰って来た隣の席の社員が私に向って言った

「あー、おかえり。
 いや、何でもないよ」

「そうですか? なんか変ですよ?」

「なんだよ、ボケたってか?」

「いや、そんなんじゃないですよ」

「あはは、まだボケてられないしな」

「そうですよ。 しっかり頼みますよ!」

「うるさいって!」

「あはは」

そう言って2人で笑い合ったけど
いつもの笑顔で笑えていたかどうかは自信が無かった



3月最後の金曜日

Mさんの送別会が行われた

今日の主役のMさんは上座の支社長の隣
私は少し離れた場所に座っていた

支社長のお決まりの挨拶から宴席は始まり
しばしの歓談の後
恒例のビンゴ大会が始まった


「よし、今日は当てるぞー!」

「いや、今日は俺のものだべ」

「ビンゴの人は一気飲みだからね!」

「あー? マジ? 超嬉しい♪」

「なんだ、それ?
 ダメダメ! あいつに呑ませたら底無しだから
 お酒がもったいないって」

もう既にお酒が相当入っているらしく
ビンゴ大会が始まる前から会場は盛り上がっていた


「じゃ、始めますよー
 良いですかー?」

「おー!」

「早くやれー!」

「えーっと、最初は「27」です!」

「おー、あった!」

「えー! 次、次!」

「はい、次は「51」です。
 リーチの人はいますかー?」

「いるか、そんなもん!
 はい、次、次!」

「今日はせっかちさんがいますね(笑)」

「せっかちは奥さんに嫌われますよ!」

どこかからヤジが飛ぶ

「はい、じゃ次です。「19」!」


番号が進むと次々にビンゴの人が出て
会場は更に盛り上がっていった


「じゃーん、いよいよ次がラストの景品です」

「えー? もう?」

「いやー、またダメかよ」

会場のあちらこちらからブーイングが飛ぶ

「景品の追加しろー!」

「なんなら、司会!
 お前が景品になれー!」

「あー、それセクハラですよー
 課長、一発レッドカードでーっす!」

「いやぁ〜ん、それだけは堪忍してぇ〜」

「課長、アウト!」

「あはは」

「嫌だぁ〜」


Mさんもお腹を抱えて笑っていた


「さぁ、みなさん良いですか?
 次、最後ですからね〜
 ちゃんと祈ってくださいよ。
 じゃ、行きます!
 はい、出ました!
 「33」です!
 どうですか?」


私は一瞬ドキッとした

『ビンゴだ!』


「はい、ビンゴでーす!」

私が手を挙げると
Mさんも手を挙げていた


「あー、YさんとMさんですね?
 どうしましょ?
 取り合えず、2人前に来てジャンケンしてください」

「いや、Y! お前、どう言う立場か分かってるよな?」

支社長が笑いながら言った

苦笑いの私に司会者は

「とりあえず、YさんとMさん。
 こちらにどうぞ」

「いや、今日の主役はMさんですから
 Mさんで良いですよ」

するとMさんが言った

「ダメですよ。 Yさん、ジャンケン勝負しましょう」

「いやでも・・・」


「早く、早く♪」

Mさんが私の席の前にきて
私の手を取ると司会者の前に引っ張って行った

「ヒュー、ヒュー!」

「よっ、Y、良いぞ!」

「やるー!」

みんなが私とMさんを囃し立てる


「さぁ、良いですか?
 正々堂々、恨みっこ無しで1本勝負ですよ!」

「おい、Y。
 お前まさかMさん相手に本気にならないよな?」

「そうだ、そうだ!」

「今まで世話になった恩を忘れるなよ〜」

みんなが口々に言う


「お前、ここで勝ったら
 明日は会社に出て来なくて良いからな!」

「課長、明日は休みで〜っす」

「あっ、そうか?」

みんながドッ湧いた


「さっ、そしたら行きますよ!」

司会者が2人の手を取って勝負を促す

「ねぇ、Mさん? 何を出す?」

「ダメですよ。 勝負なんだから、正々堂々です!」

「そんな事言ってもさ〜
 この雰囲気で俺が勝ったら
 生きてここを出られないと思うんだけど」

苦笑いの私

「じゃ、私だ助け出しますから(笑)」


「おーい! 打ち合わせは無しだぞ!」

周りからヤジが飛ぶ

「なんだ? 帰りの打ちあわせか?
 Y! 不倫は会社クビだからな!」

「えー? そうなの?」

誰かが言った

「Mさ〜ん、Yなんか止めて俺とどう?」

また、別な誰かが言った

「バーカ!」

「あはは」

「わはは」

「はい、冗談はそこまで!
 一発勝負ですよ!
 最初はグー、ジャーンケーンポイ!」


私はチョキを出してMさんはグーを出した


「はい、最期の景品は見事Mさんで〜っす!」

「おー!」


自然と周りから大きな拍手が起きた

「良し、Y! 良くやった!
 お前、また会社に来て良いぞ!」

「あはは」


「はい、じゃ負けたYさんには
 Mさんの分の一気呑みと
 Mさんに送る言葉をぜひよろしくお願いします」

「えー? 俺?」

「Yさん、お願いします」

Mさんに頭を下げられたら断れるものではない


私は渡されたグラスを一気に飲み干すと
ひとつ深呼吸をして
それからMさんに向って言葉を送った


「Mさん。 長い間お疲れさまでした・・・
 えー、Mさんに初めて会ったのは
 俺が面接を受けた時でしたよね?
 たくさんの人達が面接に来ていて
 まさか自分なんかが受かるとは思ってませんでしたが
 でも、あの時のMさんの優しい言葉で
 落ちても満足かなって思ってたんです・・・」

「いよっ! お前、一目惚れやん?」

「えー? そうだったの?」

ヤンヤと周りからチャチャが入る

「しー! 静かに!」

司会者が周りを鎮める

Mさんは神妙な面持ちで私の言葉を待っていた


「で・・・
 縁あって、この会社にお世話になる事になって
 本当に嬉しかったです」

Mさんは黙って頷いていた


「年ばかりは人以上に食っていましたが
 この業界は初めてで何も分からない俺に
 Mさんは何かと声を掛けてくれて
 それで、どれだけ励まされたか分かりません。
 本当に感謝しています。
 いや、感謝してもしきれません・・・
 えー・・・」

「よっ、頑張れ!」

「えー、Mさん。
 来月からは新しい土地で新生活が始まると思いますが
 その素敵な笑顔をいつも忘れずに頑張ってください。
 ここにいるみんなもMさんの笑顔や
 優しい言葉をきっと忘れません。
 Mさん、本当にありがとう。
 そして、健康に気を付けて元気に頑張ってください」

私がMさんに向って頭を下げると
Mさんも深々と頭を下げた


「じゃ、Yさん。
 ついでですから花束も贈呈しちゃってくれます?」

「えっ? それは仲間のスタッフさんの方が・・・」

「まぁ、まぁ。 はい、お願いします」

司会者が私に
ピンクのバラがたくさん束ねられた花束を渡してくれた


「Mさん、今までありがとう」

そう言って花束を手渡すと
Mさんは涙をハンカチで拭いながら受け取った


「Yさん、ありがとうございました。
 それでは、ここでMさんからひと言をお願いします」



送別会が終わって店の外に出ると
少し冷え込んだ空気の中
街の中だったが空いっぱいの星と月が輝いていた

「うー、寒い!」

何人かがまだ店を出て来ない

そんな中で出てくるであろう残りの人達を待ちながら
数人で店の前でたむろして
二次会の相談をしている者
数人で談笑をしている者に分かれていた

私はコートのポケットに手を入れて
肩をすくめて立っていた

そこにMさんがやって来た


「Yさん、ありがとうございました。
 さっきの挨拶、感激しちゃった」

そう微笑むとペコリと頭を下げた

「いや、本当に感謝してるんだ。
 いや、でも・・・
 もっと上手く挨拶出来るはずだったんだけどなぁ〜」

「いえ、十分気持ちが伝わりました。
 嬉しかったです」

「俺もこの1年、楽しかったよ」

「本当ですか?」

「あぁ、もちろんだよ。
 俺はお世辞は苦手だから」

「またまたぁ〜」

「いや、本当だよ」

「あのね・・・」

「うん?」

「Yさんが面接に来た時
 私・・・絶対Yさんが受かるって思ってました。
 そうだったら良いなって」

「・・・」

「本当ですよ」


「おーい、そこ!
 2人で何をこそこそ話してるんだ?
 不倫はクビだぞ〜!」

「そんなんじゃないですよ〜
 課長じゃないんだから」

「何を人聞きの悪い事を。
 お前もクビにするぞ!」

「クビにされる前に退社しちゃいます」

「あはは、そうだったな。
 よし、みんな出て来たから
 次、行くぞ!」

「課長のおごりですか?」

「やったー♪」

周りからも歓声が沸き起こる

「おいおい、二次会はYのおごりだろ?
 こんな良い思いをしてるんだから」

「なんですか、それ?」

「はい、それじゃ二次会行きま〜す♪
 さっ、Yさん、行きましょ♪」



「おはようございます」

4月1日
朝、事務所に入ってMさんの机を見ると
そこには新しいスタッフさんが座っていた

通りかかった私に気が付いて
立って近寄って来て挨拶をした

「おはようございます。
 今日からお世話になります・・・」



そうだった
もうMさんはいないんだ

自分の机に座って事務所の中を見渡す

人が1人、いる、いないで
こんなに風景って変わるんだな

しみじみとそう思った


Mさんとは特に何があった訳じゃない
もちろん、手だって握っていないし

いや、手ぐらいはいつだって握るチャンスはあった

でも
そうしなくて良かったと思ってる

私が小心者だからって事だけじゃなくて

だから
最後までMさんのあんな素敵な笑顔を見られたんだろう

「それで満足さ。
 あー、楽しい1年だったなぁ〜」



「どうしたんですか?
 何か嬉しい事でもあったんですか?
 朝からニヤけてますよ」

隣の社員が席に座りながら
私に声を掛けた

「おっ、おはよう!
 いや、もうじき春だしさ〜
 なんかね」

「ですよね〜
 俺も朝からウキウキですよ」

「なんだい? 君こそ、何か嬉しい事でもあったのかい?」

「いやね、聴いてくれます?
 うちの奴がね・・・」


こうしてまた
いつものように賑やかな1日が始まって行く

































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