半 分 の 満 月









夜空に浮かんだ半月を見て君は「半分の満月」と言った。


「違うよ。あれは、は・ん・げ・つ・!」

「どうして? ただ、半分が見えないだけよ」

「だから、それを半月って言うんでしょ?
 満月はまん丸だから満月って言うんじゃん」

「じゃ、あなたの言う満月が半分だけ雲に隠れていたら?
 それでも満月って言う?」

「そりゃ、満月だもの。そう言うよ」

「それって何が違うの?」

「だって、雲が無くなったら満月に見えるじゃん」

「あなたの言う半月だって、いつか満月になるわ」

「そりゃ、そうだけど・・・
 でも、それを言ったら何でもひと言で片付くじゃん?
 半月も三日月もみんな”満月”だけで済ますのかい?
 半分の満月に細い満月とでも言う?
 そんなの変だよ。違う?」

「でも、月ってそもそも丸いのよ。
 見え方が違うだけなのにみんな満月になれないなんておかしいわ」


『おかしいのはお前の方だよ!』
そんな言葉を飲み込んで俺は言った。


「良いかい? 大事な事は見たものをどう表現するかなんだよ。
 確かに、どれも同じものだけど見え方が違うだろ?
 そのそれぞれに違う名前が付いているなんてすごいとは思わない?」

「同じものに違う名前をつけて区別をする事がそんなに良いの?」

「いや、だからさ。そう言う事じゃなくってさ。
 つまり・・・もう良いよ」

「何が良いの? 私がおかしいの?」

「いや、そうじゃないけど・・・
 もう良いよ。別にこんな事で言い争ったって仕方ないし」


君はソファの上で両手で膝を抱えて俯いていた。
俺はそのソファにもたれかかりながら後ろ手を組むと
片方の足をテーブルの下に投げ出して
もう片方の膝を折って
かかとを支点につま先をカーペットに付けたり離したりしていた。


『なんで、こうなるんだ?』

せっかくの夜だったのに変な事からこんな議論になってしまった。
そんなつもりは無かったのに・・・俺は一人でイラついていた。

君は俯いたまま何も喋らない。
こんな時の沈黙は一番苦手だ。

テーブルの上に並べられたコーヒーカップが冷めていくのが分かる。


ふと、心の中で何かが疼いた。

『そういや、前にもこんな事があったかな・・・
 そっか、あの時だ・・・』


随分、昔の話だ。
当時付き合っていた彼女と部屋で金曜ロードショー(だったかな?)を観ていた。

『ルパン三世 カリオストロの城』

ラストシーンの”あの”名場面での銭形警部のセリフ。
確か、こうだ・・・


ルパン一行が去って、見送るクラリスのところに銭形警部がやってくる。

銭形警部 「くそぉ、一足遅かったか。ルパンめ、まんまと盗みおって」
クラリス  「いいえ、あの方は何も盗らなかったわ。私の為に戦ってくださったんです」
銭形警部 「いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です」


若かった俺はその銭形警部の臭いセリフを聴いて思わず噴き出してしまった。

「なぁ?」

見ると彼女は目を腫らして泣いていた。

「何? どうした? もしかして泣いてるのか?」

それを聴いた彼女は俺をキッと睨むと言った。

「何がおかしいの?」

「だって、あの銭形のとっつぁんのセリフだぜ。
 あんな真面目な顔をして、しかもあんな臭いさ」

「もう、信じられない! 帰る!」

「あっ、おい! 何だよ? 帰るって、どうして?」

「あなたみたいに人の気持ちが分からない人とは一緒にいたくない」

「おい、ちょっと待てよ!」


それがキッカケだったのかどうかは分からないけど
それから半年後に俺達は別れた。
いや、その時のケンカの原因は他にあった。

多分、ルパンのテレビ云々は関係無い。
彼女はその後も何も変わらなかったし
いつものように仕事帰りには俺の部屋に寄って
食事の支度をして俺が帰るのを待っていてくれた。
いつものように愛し合っていたし彼女は変わらず優しかった。

別れた原因は明らかに他の事だった。

でも、どうしてだろう?

彼女と別れた直接の原因だった事よりも
何故か、ルパンのテレビを観た後の”事”がずっと心に引っ掛かっていた。


”あなたみたいに人の気持ちが分からない人とは一緒にいたくない”

そう言われたあの時の言葉が
決して抜けない棘のように心に突き刺さっていたんだ。


気持ちが分からない?
俺が? どうして?

俺はいつだって彼女の事を一番に考えていたし
彼女だって、いつも笑顔で応えてくれていた。
俺はいつだって彼女の事を分かってるつもりだったし
その自信はあった。
例え、何があったってそれは変わらない。
驕りだと言えば、そうだったのかも知れないけど
あの時は俺なりに真剣にそう思っていた。

確かに、今思えば別れた原因は
若気の至りの売り言葉に買い言葉みたいなものだった。

ちょっとしたすれ違いがあってお互いに素直になれなくて・・・

そう、今にして思えばそんな他愛も無いような事だったと思う。


恋人と別れる。そんな事は良くある事だ。
いつまでも付き合い始めた時の気持ちが変わらないはずもないし
いや、仮にそれは変わらないにしたって
つまづく原因なんて若ければ若いほどたくさんあるものだ。

恋人と別れたからって、それで人生が終わる訳じゃないし
それでもう結婚が出来ない訳でもない。

男と女がただ出会って、恋をして、ある時期を一緒に過ごし
そして、何かが原因で別れてしまう。

そう、良くある話だ。

別れた直後は落ち込む事もあるかも知れないけど
それも時間が経てばだんだんと薄れていく。
そのうち、他に好きな人が出来て
いつか、別れた相手の事なんてただの想い出になってしまう。

そんなものだろ? 若い頃なんてさ。


だよな?


なのに・・・何でだろう?

あの時の”棘”は今も刺さったままなんだ。
普段は忘れているんだけどね。
でも、時々何かの拍子にチクッと痛みが走る。

そして、あの時の事が心に浮かぶんだ。

そんなに彼女の事が好きだったのか?
いや、きっとそれだけじゃない。

いや、そう言う事じゃない。


だって、もう十年近くも経つんだ。
いくら俺だって、そんなに未練たらしくはないさ。

現実に彼女と別れてからだって三人の女性と付き合ってきた。

その内の一人はその彼女よりも長く付き合っていた。
もちろん、結果的には同じように上手くいかなかったんだけど。


じゃ、何で?

何で、今でもあの時の事だけが俺の心に残ってる?


「難しい顔をしてるね。やっぱり、怒った?」

ふいに君は言った。

「えっ? 何が? そ、そうだっけ?」

「うん。すごい怖い顔をしてた」

「いや、そんなつもりは無かったんだけどさ。
 ちょっと昔の事を思い出してた」

「そうなんだ・・・」

「訊かないの?」

「何を?」

「いや、俺が怖い顔をしていた理由。
 怖い顔をしてたんだろ?」

「だって昔の事なんでしょ?
 その時、私はそこにいた?」

「いや。ずっと昔の事だしね」

「なら、訊いてもしかたないよ。
 ううん。興味が無いとかそう言う事じゃないの。
 もちろん、私だって人並みに気になるけど
 でも、それは私の知ってるあなたじゃないもの」

「俺だよ」

「そうだけど。でも、私の知ってるあなたじゃないわ」

「・・・」

「それが何であろうと、私のあなたに対する気持ちは変わらないわ。
 時々・・・何て言うかな。
 冷たく感じる時もあるけど・・・」

「冷たい? 俺が? そっか、そんな風に思ってたんだ?」

「私が勝手にそう感じているだけ。
 『この人、私の何を分かってくれてるんだろう?』って思う時があるの」

「分かってるさ。少なくとも俺はそのつもりだよ」

「そうね。私もそう思ってるよ。でも・・・」

「でも?」

「感じ方ってみんな違うじゃない?
 同じ事だって、その時によって違う風に感じちゃう事だってあるし」

「それはそうだけど。でも、ちょっとショックかも・・・」

「ごめんなさい。でも・・・」

「・・・」

「気を悪くしたらごめんね。
 あなたが私の事をいつも理解してくれようとしているのは分かってる。
 でも、それはあなたの理解の仕方だわ」

「俺の?」

「上手く言えないけど・・・
 例えばね。政治家が二人いたとしてね。
 一人は民衆の為に政治をしている人で、もう一人は自分の為に政治をしている人。
 どっちが偉いと思う?」

「そりゃ、民衆の為に政治をしている人だろ? 当たり前だよ」

「そうね。私もそう思う。
 でも、もしね。
 もし、民衆の為に政治をする事が自分の喜びだとしたら
 それは自分の為にする政治と変わらないと思わない?
 逆に、自分の満足の為に政治をしたとしても結果的に民衆が幸せになったとしたら
 その人は政治家としてきっと評価されるわ」

「何だそれ? 言葉のマジックかい?」

「ううん。そんなんじゃないけど」

「つまり、俺が君の事を理解しているつもりでいるのは
 俺の自己満足だって事?」

「そうとは言わないわ。
 でも、与える方と与えられる方では感じ方が違うって事を言いたいの」

「じゃ、俺はどうすれば良いんだ?」
 
「私の事を理解しようとするんじゃなくて認めて欲しいの」

「認めるって・・・認めてるよ」

「そうね。
 でも、感性とか感じ方ってみんな違うの。違って当たり前なのよ。
 それは悪い事じゃないの。
 それを認めてあげられないのがいけない事。
 自分の尺度だけが世の中の秤じゃないわ。そうでしょ?」


俺は返す言葉が見つからなかった。


「あっ、ごめんなさい。私ったら『でも』ばかり言ってるね。
 こんなんだから可愛くなれないんだ」

そう言って君は自分の頭をコツンと叩いた。
笑ってはいたが君の目には大粒の涙が浮かんでいた。


”感性は違って当たり前。それは悪い訳じゃない。
 それを認めて上げられないのがいけない事”

うん。言ってる事は何となく分かる気がする。
いや、分かってる。俺だってそんな事は分かってる。

だけど・・・君がそんな風に思っていたなんて。


分かっていたつもりで俺は本当は何も分かっていなかったんだ。


そっか・・・

あの時、彼女を怒らせてしまったのも
きっと、それが原因だったのかもな。

俺は彼女の事も君の事もいつだって分かっているつもりになっていたけど
結果的には何も分かってなかったって事なんだろう。
その事自体を俺は分かってはいなかった。
ただ、自分が分かってるつもりになっていただけで
それは言って見れば押し付けみたいなものだったのかな?

もしかしたら・・・

いつかそれに気付くようにあの時の”棘”は刺さったままになっているのだろうか?
今となってはそれは分からないけど
もしかしたら、この棘はあの時の彼女の優しい置き土産みたいなものなのかな。

そう思いながら俺はそっと胸を押さえた。

『私の分も彼女の事をちゃんと分かってあげなよ。
 自分の想いだけを押し付けちゃダメなんだよ。
 感性はみんなそれぞれなんだから、それを大事にしてあげなくちゃ』

押さえた胸の隙間からそんな彼女の言葉が聴こえた気がした。


「ねぇ?」

涙を指で拭きながら君は俺を見て訊いた。


「怒ってる?」

「いや。そんなんじゃないんだ。
 そうだ! ねぇ? 今の俺はどんな顔をしてる?」

「今の?」

「あぁ、今の俺」


君は俺をしばらくじっと見つめた後でこう言った。

「何だか清々しい顔をしているわ。
 黙ってたから、てっきり怒ってると思ってたのに。
 でも・・・何か、そんな感じじゃない」

「そっか」

俺は妙に嬉しくなった。
どうやら、それが顔にも出たらしい。

「どうしたの? 何か変よ。急にニヤニヤして」

「いや、別に。 ただ、今なら君が言う『半分の満月』も
 それも有りなんだなって思える気がする」

「もう止めて。何だか恥ずかしいわ。
 そんな言葉ひとつに拘るなんて私って子供だよね?」

「いや、そうは思わないよ。半分の満月があっても良いんだ。
 但し、満月も半月も三日月もちゃんとあった上での話しだけどね」

「うん。そうだね」


『そうさ。きっとそうなんだ。そう言う事なんだ』

そう思った途端、あれだけ抜けなかった棘がフッと消えた気がした。


「あーっ! ねぇ、見て、見て! キレイな満月よ」

ソファから立ち上がると居間のカーテンを少しだけ開けて外を見た後で
それから、君が振り返りながら嬉しそうに笑う。

君が今、見ている月がどんなだろうとそれは満月に違いない。
だって、君がそう言うんだから。

























































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