鏡の中の男








或る夜のことだった。
仕事が終わると俺は何処に寄り道をするでもなく
すぐにいつものように電車に乗り込み
そしていつもの駅で電車を降りて
いつものように駅前通りから商店街を抜け
俺はアパートまでの道を速足で歩いていた。



毎日、毎日、判で押したように
同じ時間にアパートを出て
同じ時間にアパートに戻る生活だった。

会社とアパートの往復だけの毎日。
同僚と飲みに行くでもなく
もちろん、デートなんてしたこともない。

「それで寂しくないのか?」だって?
別に寂しくはないさ。
そりゃ最初はね。
寂しいというより・・・そうだな。
<みじめ>ってのかい?
そんな風に思ったこともあったけど
慣れたら別にどうってことはなかったよ。

縮れたくせ毛。
かろうじて二重だが気持ち悪いくらいギョロっとした目。
低い団子っ鼻。
分厚い唇。
えらの張った長い顔。
潰れた大きな耳は遺伝だろうか?
思えば祖父も父も同じ耳をしていた。

そんな顔だったから子供の時から
女子にモテたこともなかったし
それは学生時代も今だって何も変わっちゃいない。

昔はね。
鏡を見ながら己の醜さを呪ったもんさ。
そして、もう二度と鏡は見ないと誓った。

でも、悪いことばかりでもなかったよ。
友人達がデートだなんだって遊んでいる間に
俺は勉強に没頭していた。
勉強は嘘をつかないし、顔で点数に差はつかないからね。

お蔭様でいわゆる世間でいう一流大学にも受かったし
今は世間から一流と呼ばれている会社で
それなりに頑張っている。
生活にも余裕ができたしそれで十分に満足さ。

例え、これから死ぬまでずっと独りだって
蓄えさえあれば何とかなるだろうし
三十歳を過ぎて今更他には何も望んじゃいない。



とある店の前に来た時に
店の中で何かがキラリと光るのが見えた。

「あれっ? こんなとこに骨董屋なんてあったっけ?」

俺は立ち止まってガラス窓の中を覗き込んだ。
すると又、何かが店の奥でキラリと光った。

引き込まれるように俺は店のドアを開けた。

「いらっしゃい」

その声の方をみると
およそ愛想の無いオヤジが店の脇のカウンターに座っていた。

「何か探し物ですかな?」

「い、いや、そう言う訳じゃ・・
 あのぉ、店の前を通りかかったら
 この中で何かが光った気がしたもんで気になっちゃって」

「そうですか。
 見ての通り、ガラクタばかりじゃが
 好きなだけ見ていってくだされ」

「あっ、は、はい」

俺は見るともなしに店の中を見て回ったが
特に何も目を引くものも変わったものはなかった。
素人目にはどう見ても中古品のしかもガラクタばかりにしか見えなかったが
見る人が見ると骨董品となるんだろう。
俺には全く興味のない世界だった。

<なんだ、気のせいかな>

「すみません。又、来ます」

そう言って俺が店を出ようとした時だった。
背後に何かの気配を感じた。

振り返って見ると、そこには仰々しいほどの金細工。
こんな店に並んでいるんだ。
おそらくはメッキか何かだろう。
元はかなり豪華な装飾だったろうが
今ではかなり金の部分が腐食していた。
鏡面の大きさは縦が五〜六十センチ、横幅は三〜四十センチほどの
そんな古ぼけた金細工の縁取りの鏡がそこにあった。

「ほぉ。お目が高い。
 それは古い曰く付きの鏡での。
 クレオパトラは知っておるじゃろ?」

店主はにこやかに話しかけてきた。

「えぇ、古代エジプトの女王で
 今でも美女の代名詞ですよね」

「その通り!」

私がそう答えると
店主は我が意を得たりとでもいうかのように大仰に答えた。
久し振りの<カモ>を見つけた猟師といった具合だろうか。
その胡散臭さに俺は適当にあしらって早く店を出ようと決めた。

「で、そのクレオパトラがどうしたんです?
 まさか、この鏡の持ち主だったとでも?
 そんな話は子供だって信じませんよ」

店主はかまわずに続けた。

「クレオパトラの鼻の話くらいは知っておるじゃろ?」

「えぇ、後何センチ高かったら世界は・・・って奴でしょ?」

「クレオパトラは確かに美人だったが
 その鼻がコンプレックスでもあったようでじゃな。
 毎日、この鏡を観ては嘆いていたそうじゃ。
 でも代々王家に伝わる鏡をどうすることも出来ずにいたのじゃが
 ある時、我慢が出来なくなって王の留守中に
 宮殿に飾ってあったこの鏡を従者に命令をして割ろうとしたのじゃが
 不思議なことにその時にはこの鏡は跡形もなく消えてしまっていたのじゃ。
 鏡がなくなった後のクレオパトラの悲劇は歴史の通りなのじゃが」

俺はこんな街の古ぼけた骨董屋の店主からクレオパトラの名を聞いただけで
胡散臭さが倍増したのに、これ以上の酔狂に付き合っているのは
どう見ても時間の無駄としか思えなかった。

「すみません。そんなすごい曰く付きの鏡は俺には買えそうもありませんので
 今日のところはこれで失礼します」

俺は店主の気を悪くさせないようになるべく気を遣って言ったつもりだった。
だが、店主の方はおかまいないしに自分の世界に浸っているようだ。

「まぁ、聞きなさい。
 それで、その鏡はどうなったのか?
 実はヨーロッパの諸侯に間を何百年、いや何千年もの間
 歴史の影に隠れて伝わっていったのじゃ。
 この鏡を持つ家は栄え、或る日突然なくなるとその家は滅びた。
 そんな風に伝えられておる」

「はぁ」

「何じゃ、信じておらんようじゃな?」

「い、いや、そんな訳じゃ・・・
 でも、にわかには」

「まぁ、それも無理はない。
 信じるも信じないもあなた次第なのじゃからな。
 じゃが、これにはもうひとつ曰くがあってな。
 この鏡は持ち主を選んでいるのじゃよ。
 誰だって良い訳じゃない。
 鏡に選ばれた物だけがこの鏡の持ち主になれるのじゃ」

「それじゃ、ますます私には縁がなさそうです。
 第一、そんな曰く付きの高価なものを買える身分じゃありませんしね。
 俺は王様でも伯爵でもないただのサラリーマンですから」

「そうか、それは残念じゃな。
 たったの一億五千万円なんじゃが」

「一億? あんたは俺をからかっているのかい?
 誰がこんな鏡に一億も払うっていうんですか?
 いくら<カモ>でもここまでバカにされちゃ買えるもんだって買いませんよ!」

「いや、バカにしてもおらんし、からかってもおらんのじゃがな」

「いいや、あなたは俺がお人好しの<カモ>だと思ってバカにしています!」

俺は堪忍袋の緒が切れたみたいについ声を荒げた。

「まぁ、まぁ。そんなに怒鳴らんでもまだ耳は達者でな。
 良く聞こえておる」

「・・・」

「まぁでも。いくら金を積まれても鏡に選ばれなかったら同じじゃ。
 一億五千万でも千円でもな」

「ほぉ、それはおもしろいことを。
 千円ならすぐに買いますよ。
 この鏡に選ばれなかったら処分する手間も省けるってことですよね?
 おもしろい。すぐに包んでください。
 はい、これ」

俺はそう言うと一万円札を一枚差し出した。

「あっ、お釣りはいりません。
 良いヒマ潰しをさせてもらいましたら」



結局、俺は気が付いたらその鏡を買っていた。

薄茶色の厚手の油紙のような包装紙に包まれた鏡を抱えて歩きながら
俺は早くも後悔をしていた。
なんせ重たいのだ。
いつも買う十キロの米袋・・・それに比べても大した違いはないように思えた。

「なんでこんなに重たいんだ?
 さっきはこんな感じじゃなかったのに」

俺は半ば汗をかきながら右手に左手に何度も持ち替えながら
やっとの思いでアパートに辿り着いた。


「ふぅ・・・」

部屋に入ると俺は部屋の隅に鏡を置いて額の汗をぬぐった。

「やれやれ。ところでこいつは何処に掛けようか」

居間を見渡しても掛けるに丁度良い場所は見つけられなかった。
第一、部屋の中は家具量販店で買ったシンプルな色や形の家具ばかりで
その中に掛けるには鏡はあまりに仰々し過ぎた。

「やっぱり寝室かな?
 でも、寝室に掛けるにはこいつはちょっと不気味だよな。
 毎晩、甲冑を着た昔の兵士にうなされたりしてな」

俺は自嘲気味に包装紙に包まれた鏡を見た。
もちろん、昔から霊感なんてなかったし、夢にうなされたこともなかったのだ。

「まぁ、或る意味そんなのが出て来るってことは
 こいつは<本物>ってことになるんだけど」

それだけは有り得ないだろうと
俺はあの骨董屋の店主を思い出しながら確信をしていた。



当然のように何事も起きないまま一週間が過ぎて
俺は寝室に掛けた鏡の存在すら忘れかけていた。
なんせ鏡なんて見るのも嫌だったのだから
寝る時も起きた後も鏡を見ることがなかったのだ。
ネクタイだって別に鏡がなくたって上手く締められたし
縮れたくせ毛の俺は適当に二〜三度ブラシをかけたら
それで身だしなみはオーケーだった。

「何をどうしたってブサイクがイケメンになる訳じゃないさ」



ある夜、俺が寝ているとベッドの横で何かの気配を感じた。

「ん・・・なんだ?」

寝惚けたまま俺は体を起こすと辺りを見回した。
だが、別に何も変わったことはなかった。

「気のせいか・・・」

ベッド脇の時計をみるとまだ2時を少し過ぎたばかりだった。

俺は又、身体を寝かせるとタオルケットを顔の半分まで隠すようにして
それから半身を左の壁に向けて寝直そうとした。

だが、今度はなかなか寝付けない。
人間、何かが気になると余計に眠れなくなるもので
何度も俺は寝返りを打ってみたが逆に目が冴えるばかりだった。

「ふぅ・・・参ったな。明日も仕事だってのに」

俺は目を瞑ったまま深呼吸をした。
気持ちが落ち着けば眠れるようになる。
深呼吸をしながら俺は自分に暗示をかけようとしていた。

その時だった。

「やはり<誰か>いる!?」

俺は得体の知れない視線を感じたのだ。
間違いない。

俺は又、起き上がるとすぐに部屋の電気を点けた。
そして壁際を振り返った時だった。

俺は我が目を疑った。
鏡の中の見たこともない<誰か>が俺を見てニヤリと微笑んでいたのだ。

「お、お前は・・だ、誰だ?」

「おいおい、何を言ってるんだい?
 俺はお前に決まってるだろ?
 お前は鏡を見ているんだからな」

「そ、そ、そんな訳ない! あるはずがない!」


そう、そんなはずはないのだ。
何故なら鏡の中の男はシュッと細見の顔に通った鼻筋。
キレイな二重のクッキリとした目にサラサラの茶髪。
誰がどんなに卑下したところで
誰もが美男子と言うに違いないような男だったのだから。


「誰だ、お前は? 悪魔なのか?」

人間はあまりに信じられない場面に出くわすと
突拍子もないことを言うものだ。

『悪魔? そんな<モノ>がいる訳はない』

心の中ではそう思いながらも有り得ない現実を受け入れるには
そう思うしかなかったのだ。

「悪魔? この俺が? あはは、まさか!
 何を寝惚けているんだ? 俺はお前に決まっているだろ?」

「そうか、夢だ! これは夢なんだ!」

「夢? お前がそう思うのは勝手だが、残念ながらこれは現実だ」

冷めた言い方で男は言った。

夢なら夢でも良い。
こんな夢は初めてだが、これも酔狂と言うものだ。
俺は夢だと決めつけると少し落ち着きを取り戻した。

「ふん。自分で言うのも癪だけどな。
 俺はお前みたいにハンサムじゃないんだ。
 そんなことくらいは十二分に解っているさ。
 で? お前は何をどうしたいんだ?」

「どうにかしたいのはお前じゃないのか?」

「何が?」

「何度も言うが俺はお前だ。
 ただし、外見ではないけどな」

「どういうことだ?」

「お前の心が形になって映っているのさ。
 つまりは俺の姿形こそがお前の本当の姿という訳さ」

「意味が解らん」

「まぁ、良い。とにかく俺はお前なんだ。
 正確に言うとお前の<心>って訳だがな。
 お前が買ったこの鏡は心の中を映す鏡なのさ」

「・・・」

「信じてないようだね?
 じゃ、こうしよう。
 お前の顔のどの部分かと俺のどの部分かを交換してやろうじゃないか。
 お前の心をお前の外見に戻してやろうって訳さ」

「そんなこと出来る訳ないじゃないか。
 やっぱり、お前は悪魔だ!
 願い事をかなえる代わりに俺の魂を奪おうって魂胆なんだ!」

「ははは。どうせ『そうじゃない』と言っても信じないんだろ?
 なら、どうでも良いけどね。
 お前はせっかくハンサムになれるチャンスを失くすだけだし
 俺は痛くも痒くもないってことさ。
 だけど、試すくらいは良いと思わないか?
 どうせ<夢>なんだろ?」

「・・・」

「さて、何処が良い? 目か? 鼻か? 唇か?」

「・・・」

「おいおい、楽しい夢だと思うけどね。
 お前はそうやって夢の中でもいじけて暮らすんだ?
 『俺はブサイクのままが好きなんだぁ〜』なんてな」

「何を!」

「おっ、少しはその気になったかい?」

「出来るもんならやってみろ!
 お前の目をくれ! その二重のキレイな目だぞ!」

「良いだろ。一度目を瞑って、そして三つ数えたらゆっくり目を開けるんだ」

俺は言われるままに目を瞑り、そして三つ数えた。

「一・・・二・・・三・・」

そしてゆっくりと目を開けた。

「あっ!?」

「どうした?」

鏡の中の男の目はさっきまでのクッキリとした二重ではなく
見覚えのあるギョロっとした二重の目になっていた。

「俺の目は?」

俺は慌てて洗面所に行くと鏡を覗き込んだ。
俺の目は見慣れた気持ち悪いくらいのギョロっとした目ではなく
クッキリとしたキレイな二重になっていたのだ。
だが・・・


「どうだ? 感想は?」

俺が寝室に戻ると鏡の中の男が訊いた。

「どうもこうもない」

「何を怒っている? お前の望み通りだろ?」

「そうだけど・・・でも、バランスと言うものがあるだろ?
 こんな顔に目だけキレイでも見た目は結局は変わっちゃいない。
 どうせなら一度に全部を替えてくれよ」

「それは無理だ」

「無理? 何故?」

「それが決め事だからだ」

「交換出来るのは一個だけと言う訳か?
 ふん、所詮はそんなもんなんだな」

俺は一瞬でもハンサムになれると信じた自分が急にバカらしくなった。

「そうじゃない。新月の夜に一個づつ替えられるんだ。
 だから次の新月の夜になれば又、替えられるのさ」

「新月の夜? どうして新月の夜なんだ?」

「人間は満月の夜が一番パワーがあると思っている。
 そうだろ?」

「そうじゃないのか? 狼男が変身をするのだって満月じゃないか?」

「それは迷信だ。
 確かに満月はたくさんのエネルギーを蓄えている。
 だが、それが放出されるのは新月なのさ。
 だから新月の夜が一番パワーが強いんだよ。
 考えてもみろよ。人の顔を替えるんだぜ。
 どれだけのエネルギーが必要だと思うんだ?
 だから、新月の夜に一個だけなのさ。
 解ったら次の新月まで大人しく待ってるんだな。
 又、その時に交換してやるよ」

そう言うと鏡の中の男は消えた。
今、そこに映っているのは紛れもない俺自身の醜い顔だった。
ただし、目だけはキレイな二重の何ともバランスの悪い顔だったけど。



次の日。俺は普段通りに出社をした。
会社のロビーやエレベーター。
廊下で誰かとすれ違う度に俺は自然と目を伏せていた。

普段は誰も俺のことなんかまともに見てはいない。
上司だって後輩だって多分そうだろう。
もちろん、仕事の打ち合わせとか
用事を頼んだり頼まれたりはあるけど目を合わせて話したなんて記憶にはない。

いや、もしかしたら気にしているのは俺だけで
他の奴らは誰が相手でもどうってことはないのかもしれない。

ある意味では会社というのはプロ集団だ。
みんな仕事相手の顔なんて本当は大して気にしてはいない。
気にしているのは自分の数字と出世だけだろう。
婚活に精を出す女子社員はともかくだろうけど。
もっとも、その手の女子社員は端から俺なんて相手にはしていない。

だから俺の目がいつもと多少違ったところで
誰にも気づかれないに違いない。
そんな風に思う気持ちと、もし誰かに気が付かれたら何て言えば良いんだろう?
そんな気持ちが自然と俺を俯かせていた。


「ふぅ・・・」

自分の席につくと自然にため息が漏れた。

「あっ、先輩。おはようございます。
 これ、今日の打ち合わせ表です。
 十三時からN商事との例の打ち合わせです。
 部長が期待しているぞって言ってましたよ」

後輩の佐久間はそう言うといつもと変わらない態度で自分の席に戻って行った。
何に気付くこともなくだ。

「そんなもんか、やっぱりな。だが、待てよ・・・」

以前、テレビで観た「アハ体験」のことを思い出した。

「アハ体験」自体は脳を活性化させる為の手段なのだが
その中に一枚の写真の一部が徐々に変化をしていくことに気が付くかどうか?
と、いうのがあった。

つまり、一度に変われば誰もが変に思うだろうけど
俺の顔のパーツが一ケ月に一か所づつ変わって行くんだったら
誰に気が付かれることもなく俺はハンサムな男に生まれ変われるんじゃないか?

俺は急に次の新月の夜が待ち遠しくなっていた。



二度目の新月の夜になった。
俺は十二時を過ぎたくらいから急く気持ちを抑えながら
鏡の前で<男>の出現を待っていた。

「早く来い!」

やがて二時を過ぎた時、男は現れた。

「おや、今夜は寝ていないのか?」

「当たり前だ! 早く交換をしてくれ!」

「まぁ、そう焦るなよ」

男はニヤニヤしながらわざとじらすようにゆっくりと答えた。

「で、どうだったい? 会社で誰かに気が付かれたかい?」

「いや、それは大丈夫だ。
 一度に全部が変わればみんな気が付くだろうが
 一ケ月に一か所だけならだれもそうは気にしないさ。
 もともとがそんなに目立つ方でもなかったしな」

「ほう、それじゃむしろ好都合ってやつだね?」

「だから、さぁ! 早く交換をしてくれ!」

「良いだろう。で? 今夜は何処にする?」

「鼻だ! 俺のこの団子っ鼻をお前の鼻と替えてくれ!」

「よし、じゃあ又、ゆっくりと目を瞑るんだ」

俺は心の中で三つ数えて、そして目を開けた。


鏡の中の男の鼻は見事なくらい俺のに瓜二つの団子っ鼻になっていた。
俺は急いで洗面所に行き、鏡で鼻筋の通った新しい鼻を確認すると
急いで寝室に戻って鏡の中の男に懇願をした。

「なぁ、やっぱり一ケ月に一か所しかダメなのかい?」

「あぁ、それが決まりだ。
 お前も自分で言っただろう?
 一度に全部が変わったら気付かれて整形疑惑なんて羽目になるぜ。
 そしたら逆に笑い者じゃないのか?」

「あ、あぁ・・・そうだな。分ったよ」



次の日、出社をした時も誰も俺の<変化>には気が付いていないようだった。

「先輩、今日の会議の資料はこれで良いですかね?」

「どれ、ちょっと見させてくれ」

「はい、それじゃよろしくおねがいします」

佐久間はいつもと変わらない態度で席に戻って行った。

俺は佐久間を目で追うと頷いた。
そう、これで良いんだ。



それから三ヶ月をかけて髪の毛、分厚い唇とえらの張った長い顔を
鏡の中の男と交換をした。

あんなにハンサムだった鏡の中の男が徐々に俺の顔に変わって行くのを見るのは
正直、自分の醜さを見せつけられるようで嫌だったが
今の俺はもう五か月前の<俺>ではなくなっていた、その快感には勝てなかった。

会社の廊下ですれ違う二人連れの女子社員がクスクス笑っているのを見ると
何だか自分のことを見透かされて笑われている気分になったりもしたが
元より俺のことなんて気にもしたことのない連中のことだ。
俺がどんなだろうとそれ以上気にはしないだろう。

別に<整形>をした訳ではない。
ただ、<交換>をしただけだが
仮に本当のことを言ったところで誰もそんなことは信じないだろう。

「そう、俺はこれが本当の姿なんだ」

俺は自分にそう言い聞かせてほくそ笑んだ。


ここのところ俺の課の女子社員の俺に対する態度も
少しづつ変わってきている気がした。

「先輩、何かありました?」

俺は同じ課の女子社員の島田にそう話しかけられてドキッとした。
サラサラの長い髪、大きな瞳。笑うとできるえくぼ。
もちろんスタイルだって抜群でその辺のモデルやアイドル以上だろう。
同じ課どころか会社中の独身どもが狙っているという噂の美人の島田が
私に笑顔で話しかけてくれた。
それだけでもう俺の心臓は飛び出しそうだった。

「えっ? い、いや・・・何もないよ」

俺は努めて平静を装いながら答えた。

「そうですかぁ? 何だか少し明るくなったみたい。
 何か良いことでもあったのかなぁ〜なんて」

「あはは、なら良いんだけどね。残念ながら」

俺は少しテレながら頭をかいた。


今まで仕事のこと以外は話かけてこなかった女子社員が
こんなことを話しかけてくるなんて初めてだった。

『ふふふ。後、一ケ月か・・・』

俺は次の新月の夜が待ち遠しくてたまらなかった。



そして六回目の新月の夜になった。

「いよいよ今日で俺は生まれ変わるんだ!」

そう思うと二時までの一分、一秒が待ちきれない想いだった。

「でも・・・本当に男は現れてくれるんだろうか?」

急に不安が頭をよぎった。
物語なんかでは最後の最後にどんでん返しが起こるなんてことはよくあることだから。

「頼む! 頼むぞ! 出てきてくれ!」

俺は神にもすがる気持ちでその時を待った。
すがっていたのは、もしかしたら悪魔だったのかも知れないが
ここまで来たらどうでも良いことだった。
もう後戻りは出来ないのだ。



二時を過ぎた時、鏡の中の男が現れた。
そこには五か月前の俺がいた。

縮れたくせ毛。
かろうじて二重だが気持ち悪いくらいギョロっとした目。
低い団子っ鼻。
分厚い唇。
えらの張った長い顔。

三十年以上も連れ添った見慣れた顔がそこにあった。


「やぁ、今夜も早いね。そんなに待ちきれなかったかい?」

「あぁ、そうだよ。その通りだ。
 俺はやっと今日で生まれ変われるんだ!
 どんな想いでこの夜を待ったかお前には分らないだろう?」

「いや、分るさ。なんたって俺はお前自身なんだからな」

「そうか、そうだったな。
 鏡の中のお前は俺の本当の姿だと言っていたものな。
 だがもう、そんなことはどうでも良い。
 早くこの潰れた大きな耳をお前の耳と交換してくれ!」

「良いさ。すぐに交換してやるよ。
 でも、その前にひとつ聞かせてくれ」

「なんだ?」

「お前の顔が少しづつ変わっていってどうだった?
 何か良いことのひとつくらいあったのかい?」

「あぁ、あったよ。普段は話しかけてもこないような
 美人社員に話しかけられたりね」

「そうか、そりゃ良かった。
 やっと、これでお前は本当のお前を取り戻せるという訳だ」

「あぁ、そうさ。俺は生まれ変わって人生をやり直すんだ」

「その美人の何とやらとかい?」

「そんな高望みはしていないさ。
 自分の分はわきまえているつもりだ。
 でも、普通の生活は送れるようになるだろう。
 みんなが当たり前にやっている生活がな。
 美人とは言わないけど恋人ができて結婚をして・・・
 そう、そして温かい家庭を作るんだ。
 そんな当たり前のことも今までは考えられなかった。
 でも、もうそれも終わりだ」

「そうだな。良かったじゃないか」

「あぁ、そうだよ。
 俺は生まれ変われるんだ。
 だから、さぁ。早く最後の交換をしてくれ!」

「良いとも。分ってるな?」

「目を瞑るんだろ? そして、三つ数える」

「そうだ。最後にひとつだけ言っておくが」

「何だ? 今更、やっぱり止めだなんて無しだぞ」

「分ってるさ。そんなことじゃない」

「じゃ・・・?」

「もちろん・・・」

「何だ?」

「後悔はしていないよな?」

「あぁ、むしろお前には感謝をしているよ」

「そうか。じゃ、最後の交換をしてくれるんだな?」

「あぁ、そうだ。早くしてくれ」

「じゃ、目を瞑るんだ」



鏡の中の男の言葉に俺はすぐに気が付くべきだった。
だが、俺は願いが叶う事に夢中で
男の言い回しがいつもと違うことに気が付かなかった。


「よし、目を開けて良いぞ」

俺はそう言われて目を開けた。
と、鏡の中には以前の俺がいた。

もちろん、あの忌まわしい耳もちゃんと男の顔に付いていた。
俺は急いで確認をしようと洗面所に向かおうとした。
が、身体が動かなかった。

「えっ? おい、これはどういうことだ!?」

俺は<鏡の向こう>の男に詰め寄ろうとした。
だが、やはり身体は動かない。

「何がだ?
 ちゃんと望み通りにお前はハンサムになれたんだぜ。
 素直に喜べよ。
 きっと誰もが羨んで容姿を交換したがるだろうな。
 あはは、自由と引き換えにな」

「な、何・・・? どういうことだ? おい!」

「そういうことだよ。
 お前は望むようなハンサムな顔を手に入れた。
 代わりに俺はこうしてやっと自由を手にいれたって訳さ。
 三十年ぶりに人間に戻れたんだ。
 お前には感謝しているよ」

男はそう言うとニヤリと笑った。

「おい、話が違うぞ!」

「えぇー? 俺が一度か嘘を言ったかい?
 俺は顔を交換してやると言っただけさ。
 違うかい?」

男はニヤニヤしながらおどけた風で言った。

「しかし、身体を交換するとは一度も言っていないぞ!」

「はは、それはお前が訊かなかっただけさ。
 お前の望みはハンサムになることだったろ?
 それは約束通りに叶えたんだ。
 ゆっくりとハンサムな顔を満喫してくれよ。
 慣れたら<そこ>の暮らしも良いもんだぜ。
 腹も空かないし、働かなくたって良いんだ。
 もっとも、そこじゃ働きたくても働けないけどな」

そう言うと男は寝室を出て行こうとした。

「おい、待て! 待ってくれ!
 第一、その醜い顔でどうするんだ?
 誰も相手にしてくれないぞ!」

俺は男を引き留めようと必死だった。

「顔?
 そんなことは自由から比べたら大したことではないさ」

男は俺をまじまじと見つめると呆れたように言った。

「お前はとことん醜い奴だな。
 顔だけが全てを決めると本当に思い込んでいるのかい?
 顔なんて本当は大した問題じゃないのさ。
 容姿を気にして卑屈になっていることこそが問題なんだよ。
 心配するな。
 お前のことは良く分っている。
 今日からお前の代わりに人生を楽しませてもらうよ。
 じゃあな」

そう言うと男は俺に向かって後ろ手を振った。

「待て、おい! 待ってくれ!
 俺をここに置いて行くのか?
 ここは俺の寝室だぞ。
 毎晩出てきて呪ってやる!」

男は振り返るとわざと大仰に言った。

「おぉ、そうだった!
 忘れていたよ。
 それじゃ、お前を例の骨董屋に持って行ってやるよ。
 運が良かったらすぐに代わりの奴が見つかるだろうよ。
 お前はそいつの顔を上手くもらえればそこから出られるって寸法さ。
 人生まるごと引き継いでしまえば良いんだ。
 なぁに、気にすることはない。
 殺す訳じゃないんだからな。
 ただし、交換する相手は良く選んだ方が良いぜ。
 うっかり殺人犯なんかと交換なんてしたら
 シャバに出た途端に捕まって死刑なんてことにもなりかねないからな」

男はそう言うと愉快そうに笑った。
 
「なるべくムシの良い考えの奴を見つけてそそのかせば良いんだ。
 『お前をハンサムにしてやる』ってな。
 簡単なことだろ?
 まぁ、本当はここまで教えてやる必要はないんだけどな。
 どうだ?
 おい、良かったな。
 俺が良い奴で」

そう言うと男は<俺>を壁から外すと小脇に抱えてアパートを出た。
陽気な鼻歌を口ずさみながら・・・




あれからどれくらい経ったのだろう?
何百年か? それともただの数日なのか?
<ここ>の居心地は思ったほどは悪くはない。
だが、ここにいると時間の流れが解らなくなる。

俺は何者で、なんでここにいるのか?
混沌とした時間の中で俺が俺でなくなっていく。
最初に感じていたそんな恐怖も今じゃ感じることもない。
俺が何者であろうともそんなことは最早どうでも良い。

ただひとつだけハッキリとしていることがある。

「ここを出たい!」

その想いだけが
俺の抱えたパラドックスを満たせるかのように脳裏に刻み込まれている。

「そうだ! 俺はここを出るのだ!」

そう強く念じた時、俺の周りが一瞬だが強い光を放った気がした。


その時、骨董屋のドアが静かに開いて
二十代半ばくらいだろうか?
見た目にも冴えない若者がおどおどと中を覗くように入って来た。

「あのぉ、ちょっと見せてもらっても良いですか?」






































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