契 約







糸よりも細い新月の夜は闇の深さがいっそう濃いようにも見えた。

「何だか不気味な夜だな」

いつも通っていて見慣れているはずの辺りを見回しながら俺は呟いた。

霊感があるとか、第六感が働くとかそんなことは今までも一度も無かった。
周りの景色だって特にいつもと何かが違うという訳でもなかった。
にもかかわらず、その夜は何故か自然と帰宅をする道も足早になっていた。

いつも近道にしている薄暗い公園の散策路を抜けようとしていたその時だった。
黒ずくめの衣装を身にまとった男が突然、俺の目の前に現れたと思ったら
近づいて来るなり俺の顔を下から覗き込むようにして、そしてこう言った。

「お前さん、ずいぶんと後悔を背負い込んでいるって顔をしてるね」

見知らぬ男のいきなりの言葉にカチンときた俺は無愛想に答えた。

「はん、何をバカな! お前に心配をしてもらうことなんか何もないさ」

「なら、良いけどね。でも、ほらっ、顔にちゃんと書いてあるぜ。
 『私は今まで何度も何度も後悔をしてきました』ってな」

「ふん、お前に何が判るって言うんだ?
 えー? いったい俺の何を知ってるって?」

すると男は嘲るように呟いた。

「知ってるさ。お前さんの何もかもね。
 お前がこれまでしてきた後悔の全てもさ」

「どうだかね。第一、俺にはそんな言うほどの後悔なんてしてない」

「ほぉ、そうか。それじゃあ、これは他の奴のことだったかな」

男は古ぼけた手帳のような物をパラパラとめくりながら
さも、意地悪く独り言のように呟いた。

「どれどれ・・・大学受験の時?
 親にずいぶんと心配をかけたんだねぇ。
 受験に失敗をして家出をしたのかい?
 自分が勉強しなかったのを親のせいにしちゃって、まぁ。
 で、やっと入った三流大学じゃ仕送りをもらって放蕩三昧だって?
 ひどいもんだね。呆れるよな?
 それから・・・うん、二十七歳の時に別れた女のことを?
 ほぉ、今でも忘れられないでいる・・・
 もう三十年も経ってるのに?
 だって、お前は結婚もしていて今じゃ孫までいるってのにかい?
 忘れられないのに何で結婚なんてしたんだい?
 忘れる為かい? それとも自棄になっちまったって訳かい?
 いやいや、までも、一途もここまでくりゃ笑い話だね、全く。
 なぁ、そう思わないかい?
 お前さんのことじゃないってなら言うけど、こいつ笑えるだろ?
 それから? ふむ、なになに? 亡くなった母親に対して・・・
 ん、こりゃ笑えないかね。バカな奴だぜ、全くな。
 親孝行、したい時に・・・ってやつかね。
 後悔先に・・・」

次の言葉を遮るように俺は叫んだ。

「止めろ! 止めてくれ・・・判った、もう判ったから・・・
 いったい、お前は何者なんだ?」

「俺か? 俺はお前さんの友達みたいなもんだよ」

「何処がだよ? 俺にはお前みたいな友達はいない」

「だから、<みたいなもん>って言ってるだろ?
 友達で悪けりゃ、お前さんの分身だとでも言っておこうか?」

「意味が判らない! 何だ? いきなり俺の前に現れて。
 俺の粗探しかよ? いったい何が目的なんだ?」

「目的なんかないさ。言ったろ? 俺はお前さんの分身だってね」

「・・・」

「おいおい、そんな渋い顔をするなよ。仲良くやろうぜ」

「何が目的だ?」

男は俺の目を真っ直ぐに見ると言った。

「お前さんの願いを叶えてやろう」

「願い? どういうことだ?」

「お前さんの願いを叶えてやる。それだけのことだよ」

「ふん、やっぱりお前は相手を間違ってる。
 どうせ、新手の新興宗教とかそんな類いだろ?
 残念だったな。俺はお前の金づるになるほど金なんか持っちゃいないさ。
 どうせ、さっきの話だって、おおかた興信所か何かで調べたんだろ?
 悪いな。かかった経費も回収出来ないでさ。
 フン、カモなら他で探すことだ」

俺は吐き捨てるように呟いた。

「ハッハッハ。面白いことを言う奴だな。
 誰が金を取るって言った?」

「じゃ、何が狙いだ?」

俺は思わず男に詰め寄った。
男はヤレヤレといった仕草を見せると言い聞かせるように俺に言った。

「おいおい、ずいぶんな言いぐさだな。狙いなんかないさ。
 なぁあに、簡単な話さ。
 今のお前さんの全てと引き替えに
 お前さんが一番戻りたい時に一度だけ戻してやる。
 そしたら、お前さんはその時にした選択を代えれば良い。
 後悔をしたなら、そうならない選択をし直せば良いって訳さ。
 お前さんは人生をやり直すことが出来るんだ。
 どうだい? 良い話だろ?
 今のお前さんの全てを失ったとしてもお前さんは人生の選択をやり直すんだ。
 後悔をした選択はもう二度としないだろ?
 お前さんは改めて新しい人生を生きるんだ。
 今のお前さんの全てが無くなったところで
 違う人生を歩んでいるお前さんには何も影響は無いって寸法さ」

「そんなことが出来る訳がないだろ?」

俺は憮然と答えた。
すると男は笑みを浮かべながらこう言った。

「じゃ、試してみろよ」



「さぁ、いつに戻りたいだ? いつでも良いぜ。思いのままだ」

男は手帳をパラパラめくりながら訊いた。

俺は考えていた。

確かに、過去に後悔は何度もあった。
同じような後悔を繰り返してしまった時には
『なんて俺には学習能力がないんだろう?』
そう、自分を蔑んだこともあった。
過去に戻ってやり直したいと何度思ったことか。

でも、だからと言って現状を全て否定しようと思ったことは無かった。
確かに、過去には何度も後悔があったけど
結果、子供にも恵まれたし、今では可愛い孫だっている。
その全てを否定しようなんて気はそもそも無かったのだ。

ただ、その一方で歳を経て希薄になってしまった夫婦関係とか
仕事でも、ここ最近は上手くいかないことが続いたりと
そんなこともあって何処か投げやりな気持ちが増していたのも事実だった。

『過去になんか戻れる訳は無い』
そう思いながらも一方では
『もう一度人生をやり直せたなら俺はどんな人生を歩んでいたんだろう?』
それはきっと、誰しもが一度は思ったことがあるに違いない。
そして、俺は今夜この変な奴に出遭ってしまった。

『これは運命なのか? それとも、ただの夢か?
 そもそも本当に過去になんか戻れる訳がない。
 だけど、もし本当に戻れるなら・・・
 いつにする? 大学受験からやり直したいけど
 いや、違う・・・そうじゃない。
 やはり、あの時か・・・』

「決まったかい?」

俺を急かすかのように
男は右手に持った例の手帳を左手に何度も軽く叩き付けながら訊いた。

「あぁ、二十七歳の誕生日の一週間前に戻してくれ」

「ほぉ。やっぱりね。だと思ったよ」

全てを見透かされた気がして恥ずかしさから俺は度鳴るように言った。

「うるさい! 出来るなら早くやって見せろよ!」

「もちろんだ。お前さんも今度こそは後悔のない選択をしなよ。
 やり直せるのは一度っきりだからな。
 そうそう、それじゃ、約束通り今のお前さんの全てを頂くぜ」

「ふん、好きにしろ!」



長い夢から覚めた後のように身体には変な怠さというか疲れみたいなのが漂い
未だ何処か夢と現の境目にでもいるかのように心は重く垂れ込めた雲のようだった。

「今は・・・いったい、いつなんだ?
 俺は今、何処にいる? そして・・・何をしていたんだ?」

思い出そうとすると頭が割れるように痛んだ。
考えようとする度に動悸が激しくなって、まるで過呼吸みたいになっていた。

「考えてはいけない」

いつしか、俺はそう思うようになっていた。
或る種の自己防衛本能とでもいうのだろうか?

そして、俺は生きた。
ただ、生きたとしか言えないような月日だった。

それから、どのくらいの歳月が流れたのだろう?



糸よりも細い新月の夜は闇の深さがいっそう深いようにも見えた。

「何だか不気味な夜だな」

いつも通っていて見慣れているはずの辺りを見回しながら俺は呟いた。

霊感があるとか、別にそんなことは今までも一度も無かった。
周りの景色だって特にいつもと何かが違うという訳でもなかった。
にもかかわらず、その夜は何故か自然と帰宅をする道も足早になっていた。

いつも近道にしている薄暗い公園の散策路を抜けようとしていたその時だった。
黒ずくめの衣装を身にまとった男が突然、俺の目の前に現れたと思ったら
近づいて来るなり俺の顔を下から覗き込むようにして、そしてこう言った。

「お前さん、ずいぶんと後悔を背負い込んでいるって顔をしてるね」

見知らぬ男のいきなりの言葉にカチンときた俺は無愛想に答えた。

「はん、何をバカな! お前に心配をしてもらうことなんか何もないさ」

「なら、良いけどね。でも、ほらっ、顔にちゃんと書いてあるぜ。
 『私は今まで何度も何度も後悔をしてきました』ってな」

「ふん、お前に何が判るって言うんだ?
 えー? いったい俺の何を知ってるって?」

すると男は嘲るように呟いた。

「知ってるさ。お前の何もかもだ。
 お前がこれまでしてきた後悔の全てもね」

「どうだかね。第一、俺にはそんな言うほどの後悔なんてしてない」

「ほぉ、後悔したことすらスッカリ忘れているようだね。
 それにしてもバカな男だ。
 せっかく、望み通りの時に戻してやったのに
 結局は同じ人生の選択をして結局は同じ後悔をただ繰り返してきただけだなんてな。
 でもまぁ、無理もないか。お前は一度記憶を全て失っているんだからな。
 だけど、約束は約束だ。お前の全てをいただくぜ」



薄れ行く意識の中で俺は誰かの声を聞いた。

「哀れな、そして愚かな男よ。
 そうなったのも自業自得・・・とは言え
 私が収める世界に於いての奴らの勝手な所業を黙って見過ごす訳にもいかぬ。
 お前にもう一度だけチャンスをやろう。
 良いか? 奴の誘いを受けた時ひとつだけ条件を呑ませるのだ。
 『全てをお前に捧げるも今まで生きてきた記憶だけは渡せない』と。
 その条件が呑めないのなら話はもう終わりだと突っぱねるが良い。
 まぁ、あやつのことだ。あの手この手で誘惑をするだろうが、なぁに構わんさ。
 今の記憶を持ったまま昔に戻れるのなら決して同じ過ちは起こさないだろう。
 それこそがお前の望みのはずだ」



糸よりも細い新月の夜は闇の深さがいっそう深いようにも見えた。

「何だか不気味な夜だな」

いつも通っていて見慣れているはずの辺りを見回しながら俺は呟いた。

霊感があるとか、第六感が働くとかそんなことは今までも一度も無かった。
周りの景色だって特にいつもと何かが違うという訳でもなかった。
にもかかわらず、その夜は何故か自然と帰宅をする道も足早になっていた。

いつも近道にしている薄暗い公園の散策路を抜けようとしていたその時だった。
黒ずくめの衣装を身にまとった男が突然、俺の目の前に現れたと思ったら
近づいて来るなり俺の顔を下から覗き込むようにして、そしてこう言った。

「お前さん、ずいぶんと後悔を背負い込んでいるって顔をしてるね」

「あぁ、お前か? やっと遭えたよ。待ってたんだ」

「どういうことだ? お前さんは俺が現れるのを予言していたっていうのかい?」

「予言? さぁね。それはどうかは知らないが
 お前とは少なからず因縁があるみたいなんでね」

「なら、話は簡単だ。俺を待ってたんだろ?
 ってことは、お前さんは過去に戻りたいと思ってる。
 そういうことだろ?
 で? それはいつにだい? もう決めているんだろ?」

「あぁ、二十七歳の誕生日の一週間前に戻してくれ」

「ほぉ。やっぱりね。だと思ったよ。
 良いだろ。望み通り、今のお前さんの全てと引き替えに
 お前さんが一番戻りたい時に一度だけ戻してやる。
 そしたら、お前さんはその時にした選択を代えれば良い。
 後悔をしたなら、そうならない選択をし直せば良いって訳さ。
 お前さんは人生をやり直すことが出来るんだ。
 どうだい? 良い話だろ?
 今のお前さんの全てを失ったとしてもお前さんは人生の選択をやり直すんだ。
 後悔をした選択はもう二度としないだろ?
 お前さんは改めて新しい人生を生きるんだ。
 今のお前さんの全てが無くなったところで
 違う人生を歩んでいるお前さんには何も影響は無いって寸法さ」

「判った。だけど、こっちにもひとつ条件がある」

「条件? なんだ?」

「今の俺の全てをお前にくれてやる。
 しかし、俺が今まで生きてきた記憶だけは渡せない」

明らかに男の顔色が変わった。

「バカな。そんな約束は出来る訳がない!」

「なら、良いさ。話は無しだ」

毅然と俺は答えた。

「待て! それはダメだ。望みを叶える見返りは対価交換と決まっている。
 お前さんを望み通りの過去に戻すには、それ相応の記憶との交換が必要なのだ」

「知ったことか! それは、お前の都合だろ? 俺には関係無いね」

そう言い放つと俺は男に背を向けて歩き出した。

「待て! 戻りたくはないのか?
 後悔をやり直したくはないのか?
 それが、お前さんの望みだったんじゃないのか?」

俺は振り返ると男に言った。

「戻りたいさ。出来るならね」

そう言った俺に取り繕うように男は駆け寄って来て囁くように言った。

「だろ? そうだ、それがお前さんの望みだものな。
 なら、話を続けようじゃないか? 人生をやり直し・・・」

男の言葉を遮って俺は答えた。

「俺の記憶なんかは消えてしまおうが、それはどうでも良いんだ。
 だけど、今更かもしれないけど
 その結果として可愛い孫の人生まで無かった事にはやっぱり出来ないよ。
 何回、人生をやり直したとしても、妻とのことがどうだったとしても
 今の孫に逢えない人生なんて、それに比べたらクソくらえだ」

同居をしている孫の笑顔を思い出しながら俺は思っていた。
『そうだ、久々にアイスクリームかケーキでも買って帰るか。
 まだ、起きていてくれたら良いけど』

「悪いな。そういうことだ・・・」

そう言いかけて気が付いた。
いつの間にか男は目の前から消えていたのだ。





「哀れな、そして愚かな男よ。
 あのまま私の言うことを聞いて人生をやり直しておれば
 今より遥に素晴らしい人生を送れたものを」

「所詮、人間なんてのはそんなちっぽけな生き物だってことだろ。
 僅かな幸せでも、それを失いたくないが為に無駄にあがいて
 結局は大きな幸せを掴むチャンスを失ってしまうんだ」

「なんだ、まだいたのか?」

「まだいたのかはひどい言い草だな」

「今回はもう少し骨のある男だと見込んでいたんだがな」

「せっかくこしらえたのに又、失敗作だったようだな。
 で? 今回は何万人こしらえたんだい? 何百万人かい?
 俺は何万人処分したら良い?」

「処分とは人聞きの悪いことを。浄化するのがお前達の役目だろ?」

「ふん、同じことさ。奴ら人間にとったらね。
 あんたらが人間をこしらえる度に何割かの出来損ないが地球を滅ぼそうとしてきた。
 文明の名の下で人間どもは自分達では手に負えない狂気の産物を産み出し
 挙げ句の果てには自ら引き金を引き何度となく自然を破壊し尽くしそうとした。
 その度に俺達は大地震、大噴火、大洪水を起こして人間どもを浄化してきた。
 正確に言うなら、あんたらの尻ぬぐいだがな。
 しかし、何千年もその繰り返しじゃないか。それに意味はあったのかい?
 いったい、いつになったらあんたらは完璧な人間をこしらえることが出来るんだい?」

「完璧な人間をこしらえるというのはそんな簡単なことではないのだ」

「だろうな。そもそも、あんたらだって完璧じゃないんだからな。
 なのにだ。愚かな人間どもはあんたらを神だと崇め、俺達を悪魔だと忌み嫌う。
 いくら、あんたらと交わした契約とはいえさ。全く割に合わない話だぜ」

「それが仕事というものだろ?」

「仕事ね? あんたらがもっと上手くやってくれたら少しは俺達も楽なんだがね」

「何をぶつくさ言ってるんだかしらんが
 こっちには契約書があるんだ。違反したらお前は消滅するんだぞ」

「おー、怖い怖い。さすがに<神様>の言うことは迫力があるね。
 人間どものブラック企業のパワハラだって、もうちっとは優しいかもな」

「私だって十分に優しいさ。
 なんせ、契約書に書いてないことまで押しつけたりはしないからな。
 もっとも、そもそも契約とは我々が人間どもにした約束がその起源だ。
 だがそれは人間どもが希望を持てさえすればそれで良かったのだ。
 何、簡単に叶えられる約束なんぞするはずも無かろうがね。お前らにもな」

「えっ? 何か言ったかい?」

「いや、独り言だよ。独り言」





























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