老いて生きること





老人は疲れていた。

無理も無い。
もう何十年も必死に走り続けて来たのだ。

仕事を退いた時、老人は思った。

「これからは自分の為に生きよう」

それからは走るのを止めて
周りの景色を眺めながらゆっくりと歩こうと決めた。

だが、老人の体力は最早、若い頃のそれとは違っていた。

一歩踏み出す足も心とは裏腹に思うようには動かない。


歩き疲れた老人は道路脇の切り株に腰を下ろすと
ふと目の前に見つけたタンポポに話しかけた。


「歳を取るということは
 少しづつ
 持っている物を失くしていくということなんだろうか?

 だとしたら
 長生きをすることは辛いことでしか無くなってしまう。

 いっそ、呆けてしまって
 何もかも忘れてしまった方が幸せなのかな?」


タンポポは何も答えなかった。


「お前さんは幸せなんだろうか?
 生まれた所で一生そのままじゃないか。

 誰かに踏まれたことだってあったろう?

 そんなに苦労をして 
 せっかく花を咲かせたって
 こんな切り株の陰じゃ
 誰にも見られないんじゃないか?
 それで虚しくはないのかい?。

 それでも、お前さんは幸せなのかい?
 それとも、自分は不幸だと諦めているのかい?」


タンポポはただ風に花を揺らしているだけだった。


「やれやれ」

老人はそう呟くと立ち上がり
又、ゆっくり、ゆっくりと歩き出した。


青い空には白い雲が浮かんでいた。

一羽のツバメがスーッと
空を切り裂くように横切っていった。


「鳥は良いな、いつも自由で。

 がむしゃらに働いて社会の役に立とうと頑張って
 必死になって家族を養い一生懸命に子供を育て上げ
 老後は子供に迷惑をかけまいと身を引いて生きる。

 それは俺自身の美徳のはずだったけど。

 でも・・・そんなことの為に
 俺はずっと頑張って来たのかな?」


聴いていたのか? 聴こえていなかったのか?
ツバメはそれっきり姿を現さなかった。

雲は相変わらず青い空にぽっかりと浮かんでいた。


老人は再び歩き出した。

そこに立ち止っていても良いことなんか無いことを
老人は経験から知っていたのだ。

「人間って因果な生き物なんだろうな」


しばらく歩くと道端に一体のお地蔵様が立っていた。

長い年月を風雨に曝されていたのだろう。
首に巻かれた赤いエプロンのような布は色も褪せ
所々、端が解れ始めていた。

それでも
お地蔵様は穏やかな笑みを湛えているようにすら見えた。

老人はお地蔵様に手を合わせると独り言のように呟いた。


「歳を取って
 思うように動かなくなる手足。

 当たり前に出来ていたことが出来なくなる。

 そんな怖さがお地蔵様には解りますか?

 それに比べたら
 死ぬことなんか何が怖いものか。

 ねぇ?

 幸せな老後なんて何処にあるんですか?

 人と人は支え合ってこその人です。

 なら
 支えてもらっているだけの俺は
 もはや人間ではないのですか?」


お地蔵様は黙して何も答えない。
決して、何かを語ることもしない。

春夏秋冬、どの季節も
晴れの日も雨の日も、そして雪の日も
人が拝もうが、ただ通り過ぎようが
それでもお地蔵様は
いつもこの場所で人々を見守ってきたのだ。

穏やかな笑みは慈しみなのか?


老人はその前に腰を下ろすと
しばし時を忘れてお地蔵様を見入っていた。

『何か言葉を頂けませんか?』

或いはそれは祈るような想いだったかも知れない。


やがて、陽が西に傾き空には綺麗な満月が昇った。

時が経ち満月は老人の頭上を越えて
いつかお地蔵様の肩越しに見えるようになっていた。

それに合わせるように
月明かりに照らされたお地蔵様の影が
老人の足元にゆっくりと伸びてきた。

そして不思議な温かさが老人を包み込んでいった。


その瞬間、老人は悟った。


身体なんか動かなくたって
こうしてお地蔵様は俺に生きる勇気をくれた。

身体が思うように動かないからと言って
何も卑屈になって生きることはないんだ。

今、出来ることを信じてやれば良いんだ。

人より歳を取っているからと言って
何も死ぬことだけを考えて生きることはないんだ。

人は老後に幸せになるんじゃない。
生きていることが幸せなんだ。

忘れてしまうことは罪なんかじゃない。
幸せになる為に人は余計なモノを捨てていくんだ。

人には人生の最後の最期まで生きる権利が有るんだ。

それをきっと幸せと言うに違いない。


「そうですよね?」

老人は頷くと
もう一度、お地蔵様に手を合わせ
そして静かに立ち上がると又、歩き出した。
































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