桃の花をひと枝、飾る  〜2012〜









母の人生はいったい誰の為の人生だったんだろう?


いつも周りに気を配り
自分の事よりもいつも私や親父の事ばかり気にかけていた

私が小さい頃は
親父も公務員で安月給だったので母はいつも働きに出ていた

小さな身体で苦労もたくさんしたはずだ
でも
疲れたとか苦労だとかと言う愚痴は聴いた事が無かった

たぶん
私や親父の為の苦労は苦労とは思ってはいなかったのだろう


そんな母だった



”3月1日のこの日に亡き母親を偲ぶ”

このテーマで書き始めて今年で5回目です

今年の話は
その母が亡くなるまでの私自身の記録です





数年に及ぶ最初の癌治療が完治した時、医者は言った

「これで5年経って再発をしなかったらもう大丈夫ですよ」


その5年まで後半年となった頃、母親の癌は再発をした

そして、再び入退院を幾度か繰り返しながら
また長い闘病生活が続いた



その頃
私は未だ独身で
実家から200kmほど離れた街に住んでいたので
毎週末、仕事を終えると実家に戻っては母親を見舞う

そんな生活を続けていた



1年ほど経った頃だったろうか
いつもの週末のように母親を病室に見舞っていると
親父と私は医者に呼ばれた

「残念ですが、もって後三か月くらいだと思います」


母親の癌が再発をした時から
少しは覚悟をしていたはずだった

でも、医者のその最期宣告は
そんな私の薄っぺらな覚悟を打ち砕くには
十分過ぎるくらいに私を失望のどん底に落とした

母親の死が現実になっていく・・・


三か月と言うのは
覚悟をし直すには短過ぎて
でも、黙って待つには過酷なほど長過ぎる時間だ



夜、独りでアパートの部屋にいると
余計な事ばかりが脳裏を過る

『考えるな! 考えたら”現実”になってしまう!』

現実?

現実なんて
考えたって考えなくたって何も変わりはしない

変わらない事の畏怖

それがどんなに辛い事なのか
その時、初めて分かった気がする



夜中に鳴る電話の呼び出し音に怯える毎日が続いた


”プルルル、プルルル・・・”

高鳴る心臓の鼓動

「もしや!?」

恐る恐るに受話器を取る
そうでは無い事を願いながら

『おお、元気にしてるか?』

「何だよ、脅かすなよ」

『何が? どうかしたか?』

「いや、ごめん。こっちの話だ」

もし、こうしている間にも
親父から電話が入ったら話中で繋がらないな・・・

気もそぞろに話す友人からの夜中の電話

受話器を置いた後の何とも言えない虚脱感
そして、束の間だけホッとした



最期宣告を受けてからはもうひとつ悩みが増えた


三か月

それよりも長生きして欲しいと願う気持ち
それはもちろんあったけど
それより早くなる事も又、否定は出来ない


週末、実家に帰る時
ハンガーに吊ってある喪服を眺めていつも考えていた

なんせ200kmの距離がある
もし、帰省中に万が一
母親が亡くなったとしたら喪服を取りに戻る時間が無い

一人息子として
母親の最後くらいちゃんとして見送らなきゃと言う想い

喪服も着ずに普段着なんて訳にはいかないし
レンタルで借りるにもそれも何か嫌だ

でも
喪服を持って帰省なんかしたら
本当に母親が亡くなってしまうんじゃないか?

どうする? どうしたら良い?

毎回、そんな葛藤をしながらも
結局、母親が亡くなったその日まで
週末の度に車のトランクに喪服を忍ばせて帰省し続けた

万が一に備えて
そして、着ずにまた戻って来られる事を祈りながら


心から母親の奇跡を、回復を願いながら
一方では変に冷静に葬儀になった場合の事まで考えていた

あの時の気持ちって何だったんだろう?

普通はそこまで考えるなんてしないだろう

息子として母親の回復を願う気持ちよりも
妙な使命感の方が強かったんだろうか?

だとしたら
私は冷たい男なのかも知れない



亡くなる前の日
病室に見舞いに行くと
母親が初めて私に腰をさすって欲しいと言った

今までは一度もそんな事は言った事が無かったし
私は私で甲斐甲斐しく看病をする親父を見ていたから
それは親父の役目と言う遠慮があった

いや

この期になっても母親の病気を認めたくない

そんな想いも心の何処かにあった


「ここかい?」

横になった母親の腰を初めてさすった

「あぁ、ありがとうね。気持ちが良いよ」

母親の本当に嬉しそうな笑顔


どうして
もっと早くに腰くらいさすってやらなかったんだろう?

あんなに喜んでくれたのに

きっと
もっと肩を揉むとか腰をさするとかして欲しかったよね?

どうして
変な遠慮なんかしてたんだろう?

親子なのに・・・



そう言えば、こんな事もあった

一時退院をしていた時
母親は肩が凝ると言っていた

その事を親父から聞いていた私は
ある日、ハンディタイプで気軽に使える
低周波式のマッサージ器を土産に帰った

母親はそれを見てとても喜んでくれた

私は得意になって早速母親に使うように勧めた

使い方を教える為に説明書を読んでいた私は
その内容に言葉を失くした

”悪性腫瘍の有る方は使用を控えてください。
 進行を早める場合があります・・・”


「ごめん、母さん。 これダメだ」

「どうしたの?」

「低周波で病気の進行が早くなる事もあるんだって。
 ごめん、こんな物を買って来て・・・」

「良いよ、そんな事。
 だったらお父さんに使って貰えば良いしょ。
 お父さんだって肩、凝ってるんだから。
 ありがとうね」


何かいつも気持ちと裏腹に行動が空回りをしてしまう

『こんなはずじゃなかったのに・・・』


そうだ
あの時だって、本当はマッサージ器なんかじゃなくて
私が肩を揉んでやれば良かったんだ


あの時の私はこう考えていた

『週末しか一緒に居れないから
 いない間に肩が凝ったら使ってもらいたい』


でも、そうじゃない

一緒に居る時に肩を揉んだり腰をさすってやれば良かった
平日はいつも親父が一緒なんだし
居れる時に出来る事をしてやるだけで良かったんだ

それを物に置き換えようなんて思うから
肝心なところで痛い失敗をしてしまう

そして又
逆に余計な気を遣わせてしまう


母親は少なくとも私に物なんて期待をした事は無かっただろう

少しでも一緒に居るとか
私が元気に働く事とか
早く結婚出来れば良いのにとか
そんな普通の事だったに違いない

そうだよね?

なのに
私はいつも期待を裏切り続けていた気がする


そうだ

結婚はおろか
子供が大好きだった母親に
ついに孫の顔も見せてやれなかった

一度も孫を抱かせてやれなかった



私が腰をさすってあげた時の本当に嬉しそうな母親の笑顔

「母さん、ごめんな。
 もっと早くしてあげたら良かったね。
 機会は何度もあったのに・・・
 やってあげなきゃならない場面は何度もあったのに」


あの時にした後悔より大きな後悔は
後にも先にも無かった

人生はやり直せると言うけど
それは生きていればこそ

流れた時が戻る事は決して無いのだ



そして、次の日の昼過ぎ
昏睡状態に陥ったまま
母親は親父と私に看取られて静かに還らぬ人となった

眠っているような安らかな顔をしていた

最期に苦しまなかった事
それはいままで頑張り続けた事への
神様の慈悲だったのかも知れない

いつも自分の事より周りの人の事ばかりを気遣って生きた人



「どうしますか? 葬儀屋さんに頼みますか?」

看護師は申し訳なさそうな表情を滲ませながらも
努めて事務的に親父に言った

「そうですね・・・」

「いえ、連れて帰ります」

私は親父の言葉を遮って言った

「そうですか。分かりました。
 お母様もその方が喜ばれますね」


病院の地下の駐車場

ここから”退院”をする人は
もう二度と病院に戻って治療を受ける事は無い

つまり、もう苦しまなくても良いのだ


私が車を駐車場に入れると
担当の医者と看護師さんが数名
母親をストレッチャーに乗せて待っていた


車の助手席のシートを倒して
看護師さん達の手を借りて
親父と私で助手席に母親を寝かせるように乗せた

医者と看護師さん達が深々と一礼をする中
私は一度頭を下げると静かにアクセルを踏んだ

私と親父と母親、家族最後の片道ドライブ


その日、お盆もとうに過ぎた日の割には
やけにアスファルトを照らす太陽が眩しかったのを
私は今でも覚えている

その眩しさに目を細めて堪えていたのは涙だったのか?

それとも
悔やみきれない大きな後悔の念だったのか?



お母さん

お母さんの人生は誰の為の人生だったんでしょうね


それでも幸せだったとそう信じても良いですか?




あの日から21年目の春がもうすぐ来ます


亡き母親を偲ぶ日に

今年もまた
心の中に桃の花をひと枝、飾ります






{あとがき}

母親の命日8月25日ではなくて
毎年3月1日のこの日に母親を偲んでいる理由については
「桃の花をひと枝、心に飾る」の1回目に書いています


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桃の花をひと枝、飾る



































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